昔の日本は、西洋に比べると随分と性に対して開放的でした。『男色』もそのひとつです。
実は古事記にもそういう記述が登場しているのです。長い歴史において、男色はすでにひとつの文化となっていたのですね。
今回は、そんな男色についての記述が残っている歴史上の人物をご紹介しましょう。
詳細なる男色の記録 藤原頼長
平安時代末期、“悪左府”と呼ばれた政治家・藤原頼長は、有能な人物ではありましたが苛烈な政治手法のために疎まれ、保元の乱で崇徳上皇側に付き敗死しました。
そんな頼長が宮中や自身の出来事を綴った「台記」には、彼が男色を嗜む様子が実に詳細に記されているのです。
そこに描かれる恋愛模様は、男女のものと何ら変わりなく、まさに華麗なる恋愛遍歴の図と言えるでしょう・・・。
浮世草子の人気作家が描いた男色の世界 井原西鶴
江戸時代、人形浄瑠璃や浮世草子の作家として人気を博した井原西鶴。
「好色一代男」など女色メインのものを書いていましたが、一転して挑んだ意欲作が「男色大鑑」です。
ひたすら男色の素晴らしさを賛美し、その様子が描かれています。(それにしてもすごいタイトルですね)
「台記」と同様、当時の風俗をありのままに描くという姿勢により、文芸的価値があると評価されています。ただの興味本位ではなく、男色が当時の文化として根付いていたことがわかりますね。
男色の開祖とは本当か 空海
巷では、空海が男色を日本に持ち込んだと言われていますね。
彼が留学していた唐では男色が流行しており、そこで男色に触れたとも考えられます。
また、僧侶は女性との交接を禁じられていた身なので、側に年若い稚児を置いていたことから、おのずから男色を嗜んだのです。
17世紀頃の書物には空海こそが男色を持ち帰ったと書かれていることが多く、それが今日まで定着してしまったようです。
空海に男色の逸話が多かったことから、そうした説になったのかもしれませんね。
しかし、古事記や万葉集ではすでに男色の記録が見られ、すでに当時の日本にあったと考えても良いかと思います。
コメント