日本史の中でも人気の高い幕末史。2018年大河ドラマ「西郷どん」をはじめ、この時代を題材にして多くのドラマや小説が創作されていますが、その中でたびたび取り上げられるのが「幕末四大人斬り」と呼ばれる志士たちです。その一人に数えられる薩摩出身の中村半次郎(桐野利秋)は、人斬りとしてだけでなく西郷隆盛に最期まで付き従った人物としても知られた人物でした。
今回は、そんな中村半次郎の幕末期から西南戦争で戦死するまでの激動の人生についてご紹介します。
苦難の幼少時代
天保9年(1838)、中村半次郎は現在の鹿児島県である薩摩藩の鹿児島郡で、父である中村与右衛門(桐野兼秋)の5人兄弟の3番目として誕生しました。のちに西南戦争で共に戦う、別府晋介は従弟にあたります。後年は明治政府の軍人として出世する半次郎ですが、幼少期は武士の家系に生まれながらも生活は大変苦しいものでした。10歳の頃、藩に仕えていた父が流罪に処せられると、家禄を召し上げられてしまいます。その後、兄も若くして病没してしまい、その後は半次郎が稼ぎ頭として一家を支えました。
半次郎は通称、利秋は諱
中村半次郎は、別名を桐野利秋(きりのとしあき)といいます。この時代には、一人の人物が複数の名前を持つことがあり、半次郎は通称で、実名である諱(いみな)が利秋でした。明治になると、半次郎は苗字を桐野に改姓し、桐野利秋と名乗るようになります。小説やドラマなどでは幕末期が描かれることが多いので、中村半次郎という通称のほうが馴染み深いかもしれませんね。
半次郎は他にも、信作や晋作という通称も使用していました。加えて、桐野利秋のものとされる書や掛け軸には、「鴨溟(瞑)」という雅号も記されています。
人斬りとして恐れられた幕末期の半次郎
成長した半次郎は、藩の実質的な支配者である島津久光に従って幕末の混乱の京に上ります。この京都で半次郎は後に語り継がれる多くの活躍をしました。また、この時期に西郷隆盛からも重用されるようになり、西郷を生涯の師として仰ぎ続けます。
新選組からも恐れられた人斬り
幕末期、京都では有名な剣客集団、新選組が活躍していました。新選組の個々の剣の実力、副長の土方歳三が考案した集団戦法は、圧倒的な強さで当時の尊攘派志士たちから恐れられました。しかし、その新選組にも薩摩藩士の剣の実力は警戒されていたのです。
薩摩藩士の多くは示現流(じげんりゅう)という必殺の初太刀をもつ剣術を会得しており、凄まじい叫び声とともに打ち下ろすのが特徴でした。薩摩は戦国時代から九州をほぼ制覇したり、秀吉の朝鮮出兵で朝鮮兵から恐れられたりするなど、武勇に優れた藩だったこともあり、諸藩から一目置かれる存在だったのです。
その薩摩藩の中でも特に人斬りとして知られたのが半次郎で、新選組の局長である近藤勇も「薩摩の中村半次郎だけは相手にするな」と警戒していました。人斬りの記録として残っているのは、薩摩藩で陸軍教練をしていた軍学者・赤松小三郎を幕府の密偵とみて白昼堂々斬り殺した事件のみですが、河上彦斎、岡田以蔵、田中新兵衛とともに四大人斬りとして恐れられました。
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坂本龍馬と交流があった!
半次郎は在京時代、坂本龍馬とも交流がありました。当時、龍馬と行動を共にした三吉慎蔵は、半次郎が寺田屋事件で負傷した龍馬を毎日のように見舞ったことを証言しています。また、龍馬が暗殺された後は海援隊と連携して犯人探しをしたり、墓参りをしたりするなどしていました。
半次郎は人斬りや武闘派の人物というイメージが強くなっていますが、勝海舟にも俊才と褒められるなど、聡明かつ分け隔てなく人に接する人物として評価されており、当時も多くの維新志士と親交があったようです。
戊辰戦争での活躍
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、西郷に従い小隊を率いて各地を転戦し、彰義隊との戦いや会津戦争にも参加します。会津藩の降伏後は官軍を代表して若松城の受け取り係をつとめました。このときに敗者側の会津藩士に親身に接し、降伏した彼らの心情を受けて涙を流したそうです。ここにも半次郎の心根の優しさが垣間見えますね。
西南戦争で銃弾に倒れる!
戊辰戦争終結後、明治政府の軍人として出世を果たした半次郎でしたが、最後は日本最後の内戦である西南戦争で命を落とします。いったい彼を駆り立てたものは、何だったのでしょうか?
「明治六年の政変」で明治政府を去る
半次郎は明治政府の軍人として、陸軍少将や鎮西鎮台の司令長官、陸軍裁判所所長などを歴任します。しかし、そんな彼も幕末時代から先達として敬意を払っていた西郷に対する態度は変わらないままでした。その西郷が征韓論の末に「明治六年の政変」で明治政府を去り、鹿児島へ帰郷してしまいます。すると西郷を尊敬する半次郎も、全ての職を辞して付き従いました。
最後まで西郷隆盛につき従った
鹿児島に帰郷した西郷や半次郎は、私学校と称する学校をつくり若者たちの教育にあたっていましたが、西郷の意思とは関係なく、しだいに私学校は反政府的な性格を強めていきました。そんな中、明治政府が鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に運び出し、さらに西郷の暗殺計画が発覚したことなどから、私学校の幹部らは明治政府が西郷一派の粛正を考えていると判断。半次郎が主導した私学校本部での会議により、武力北上が決定しました。薩摩軍と政府軍は戦争状態に突入しますが、数と装備で勝る政府軍に薩摩軍は押されていきます。
やがて、西郷と半次郎は鹿児島の城山で政府軍に完全包囲されてしまいました。明治10年(1877)9月24日、西郷と半次郎は最後の戦いに赴きます。西郷は政府軍の銃弾を受け、別府晋介の介錯で自決。それを見届けた半次郎はなおも戦い続け、最後は額に銃弾を受けて絶命しました。
壮絶な最期を迎えた心優しき人斬り
人斬りとして恐れられる一方で、会津戦争では敗れた会津藩士のために涙を流したというエピソードが残っている半次郎。西郷隆盛という偉大な人物に共鳴し、最後まで行動を共にした彼の遺体には数々の傷が残されており、壮絶に戦い抜いたことを示していたそうです。幕末から明治の動乱期に生きた“人斬り半次郎”、その素顔は己の信念を貫き通す実直で心優しい薩摩隼人でした。
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