11月22日は、いい夫婦の日。前田利家とまつ、山内一豊と千代、坂本龍馬とおりょうなど、歴史上には仲の良かったとされるおしどり夫婦がいました。「いい夫婦」と言えば「井伊夫婦」ということで、今回は大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも活躍する井伊直政を中心に、井伊家の夫婦事情をご紹介したいと思います。
正室と側室の子供がほぼ同時に生まれた直政
井伊直政は天正10年(1582)、22歳で元服。翌年の1月11日、家康の養女で松平康親の娘(後の唐梅院)と結婚します。
ふたりの間に長男・直継が生まれたのは天正18年(1590)2月。結婚してから約8年後のことでした。しかも同年2月11日にもうひとり、直政の息子が生まれています。母は唐梅院の輿入れに従った侍女で、康親の家臣の印具高重の娘であり、息子は後に、直継に代わって彦根藩主になる直孝です。
正室の息子・直継の正確な誕生日はわかっておらず、側室の息子・直孝の方が何日か早く生まれた可能性もあるとされています。
直継は父の幼名でもあった万千代を名乗り、直政の手元で大事に育てられますが、直孝には過酷な運命が待っていました。唐梅院は直政の子を妊娠した印具の娘を嫌い、実家に帰してしまいます。その後、印具の娘は人知れず隠れるように直孝を産み、育てたとされます。
直孝が初めて父・直政に会ったのは10歳の時。印具の娘は、箕輪城主に出世していた直政が外出するのを待ち受けて、直孝を引き合わせ、自分の息子であることを告げたとされます。さすがの直政も城には連れて帰らず、地元の名主である萩原図書に預けて養育させたといわれています。
直政が亡くなった時、13歳になった直継と直孝はそれまで一度も会ったことがなく、直継に至っては直孝の存在すら知らなかったかもしれません。
直政に近いのは直孝だった?
家督を継いだ直継は、父の意思を引き継ぎ、彦根城の建築に着手します。しかし直継は生まれつき病弱なだけでなく、柔和な性格で、直政が鍛え上げた一騎当千の家臣をまとめる器量にかけていたとされます。
そんな直継に不安を抱いたのは徳川家康でした。直政の死後、のちの2代将軍秀忠の近習として仕えていた直孝の精悍さに惹かれた家康は、直孝に期待を寄せるようになったのです。直政に近い器量を持つのは直孝だと、家康は気づいたのかもしれません。
やはりキーパーソンは家康!
直継はその後も、井伊家内部の問題を解決できず、家康と秀忠は直孝との藩主交代を考えるようになります。慶長18年(1613)7月、将軍秀忠は、重職である伏見城番のひとりに直孝を抜擢。この時すでに直継は江戸に下って蟄居になっていたとされ、事実上の藩主交代となりました。
正室である唐梅院の悔しさは計り知れません。自分の侍女が産んだ子に息子の地位を奪われ、しかもそうさせたのは、自分を養女として直政の元に送った家康だったのですから……。
その悔しさからか、唐梅院は直政の遺品を彦根から持ち去っています。直孝のもとに残ったのは甲冑と弓矢数本だけだったとか。母としての意地かもしれませんが、妻として直政への愛情があったのかもしれません。
井伊家の別家も直孝の系統に…
彦根藩は佐和山城時代の直政を初代とし、10年以上も藩主の座にあった直継を数えず、2代藩主を直孝としています。
不憫な直継ですが、母とともに安中(群馬県安中市)移封後は、直勝と改名し、安中城を築きます。体が弱いとされながら、直勝は結局、直孝より3年長く、73歳で亡くなります。この時すでに安中から、掛川(静岡県掛川市)へ移封。さらに、直勝の曽孫にあたる直朝が精神疾患のために続けられなくなり、新藩主として、直孝の曽孫、直矩がやってきます。つまり、別家の方も直孝の系統になるのです。
この後、井伊の別家は与板(新潟県長岡市)に移封され、明治時代まで続きました。
いちばんの井伊夫婦は直盛夫妻?
そのほかの夫婦については、井伊家の女性についてはわかっていないことが多く、幕末の井伊直弼も正室とのことはよくわかっていません。
おそらく仲が良かったとされるのが、「おんな城主 直虎」でおなじみ、直虎の両親の直盛と新野親矩の妹(のちの祐椿尼)です。具体的な逸話は伝わっていませんが、直虎が唯一の子であることから、側室はいなかったことが考えられます。夫の桶狭間の死で、龍潭寺に住み、出家して菩提を弔う姿は、理想の夫婦といえるでしょう。
正室と側室との確執が家が分かれるほどの問題に発展していた戦国時代。だからこそ、おしどり夫婦と呼ばれるふたりには憧れてしまうのかもしれません。
参考文献:
楠戸義昭『女直虎が救った井伊家』ベスト新書
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