【西教寺の寄進状で分かる人柄!】マニアックな明智光秀ゆかりの地へ(その2・近江編)

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戦国最大の謎にして、最大の謀反劇といわれる「本能寺の変」。その張本人、明智光秀はただの謀反人ではなく、類まれなる名将といわれ、一定の人気を保っている。だからこそ、畿内には光秀ゆかりの地がたくさん存在するのである。

生前、光秀は丹波(京都)、近江(滋賀県)を主な活動拠点としていた。今回は、そのうち近江の史跡をいくつか訪ね、紹介したいと思う。

※前回の記事はこちら:【本能寺の跡に明智風呂!】ちょっとマニアックな明智光秀ゆかりの地へ(その1・京都編)

1.西教寺(滋賀県大津市坂本5-13-1)

坂本城から移築した城門と伝わる西教寺の山門

比叡山のふもとに位置する坂本のまち。ここは、かつての坂本城の城下町にあたるが、西教寺(さいきょうじ)という名前を知るひとは、それほど多くないだろう。だが、ここは天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山にして、光秀をはじめとする明智一族の菩提寺。光秀ゆかりのものが複数残される貴重な史跡なのである。

まず、この山門がすごい。光秀が居城としていた「坂本城」から移築した城門のひとつと伝わる。現在の坂本城には建物が何も残っていないから、これは当時の城の雰囲気を伝える大変に貴重なものだ。

客殿は秀吉時代の伏見城から、大谷吉継の母が寄進!

元亀2年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちがあった。延暦寺や日吉大社をはじめ、その被害は比叡山の山麓や周辺の天台宗寺院にも及んだ。聖徳太子の創建と伝わっていた、この西教寺も全焼した。その後、光秀は信長の命令で滋賀郡を支配することになり、坂本城を築城。同時に城下町の整備にかかり、焼けてしまった西教寺の復興に全面的に協力したという。

その後、火災でまた焼けてしまったが、現在の本堂は江戸時代中期。写真の客殿は、豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、慶長3年(1598)に大谷吉継の母が寄進したという。その経緯は不明だが、秀吉の時代の建造物が見られる寺院は、京都を除けば滅多にないだろう。

光秀の妻・妻・ひろ子の墓、夫妻の木像

その境内に明智一族の墓がある。光秀をはじめ、坂本城落城にともなって亡くなった縁者の人々が眠っている。また、光秀より早くに亡くなった妻・ひろ子の墓(上写真)が、その隣にひっそりとある。一族とは別に、先に建てられた墓が今に至るまで残されているのは、特筆すべき点だろう。堂内の一角に光秀と妻・ひろ子の木像が並んでいた。これはさほど古いものではないが、夫妻がこの寺でいかに大切に思われているかをうかがわせる。

左/明智光秀供養米寄進状。右/かつて坂本城にあった陣鐘(いずれも西教寺所蔵)※非公開

西教寺には光秀の貴重な遺品がある。それはまさに彼の性格を最も表すものだ。「明智光秀供養米寄進状」(左写真)という。

「この書状は元亀4年(1573)、光秀公が近江堅田の城を攻めたとき、18人の戦死者が出たので、彼らの供養に米を当山に寄進した時のものです。身分の低い者でも、一人ひとり名前を書いて、同じ量の米を収めています。当時の習慣として討った相手を弔うことはあったようですが、このように戦死した部下たちを弔ったという物的な証拠というのは、他に例がないようですね。この内容は、光秀が戦死者を思った気持ちがにじみ出ています」

そう話してくださったのは、西教寺主事補の前阪良樹さん。西教寺の塔頭寺院・聞證坊(もんしょうぼう)のご住職であり、西教寺に務める一方で「明智光秀公顕彰会」事務局の運営を担当されている。この顕彰会は、平成元年に西教寺が発足し、現在もここに事務局が置かれている。光秀の命日にあたる6月14日、毎年多くのファンが集まって法要が行われるという。

2.坂本城跡と城下町(滋賀県大津市下阪本3-1)

坂本城跡から見る琵琶湖の眺め

「それは豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは、天下にないほどであった」。かつて宣教師ルイス・フロイスを驚嘆させた光秀の居城・坂本城は琵琶湖の西岸にあった。しかし、光秀の死後、秀吉軍に焼かれ、その後再建されるも廃城となり、建物は現存しない。「坂本城址公園」には、城跡を示す碑と、まるで「ゆるキャラ」みたいな光秀の石像が建っているのみ。だが、そこから眺める琵琶湖の美しさは格別である。

地元の方によって、きれいに管理されている明智塚

かつての城内本丸付近と伝わる場所に「明智塚」という光秀および、その家臣たちの供養所がある。こんもりと盛られた素朴な土山の周りは奇麗に整い、掃除もされていて地元民らの思慕の念を感じることができた。

3.盛安寺(滋賀県大津市下阪本3-5-35)

天正年間、坂本城の城下町時代に使われた陣太鼓。通常は非公開

坂本城時代の陣太鼓がある、同じく琵琶湖畔の盛安寺を訪ねた。坂本城が健在のころ、敵襲を知らせるためにこの太鼓が使われたそうだ。光秀から報奨として8石を賜わった感状もある。

境内には光秀の墓碑、本堂には光秀の位牌もあり、手厚く供養が行なわれている。この坂本城周辺には、他にも明智軍将兵の首塚が祀られた東南寺、坂本城の城門のひとつが移築された来迎寺など、光秀にゆかりの寺が点在している。

4.光秀が足止めを食った「瀬田の唐橋」(滋賀県大津市瀬田)

光秀を足止めし、歴史の運命を左右した瀬田の唐橋

琵琶湖を源流とする瀬田川(淀川)に架かる「瀬田の唐橋」。京都と近江を往復する際、軍勢は必ずここを通る必要があったという重要な橋だ。「唐橋を制するものは天下を制す」といわれ、壬申の乱(672年)など古来より合戦の主戦場にもなり、ひとたび戦乱が起こると焼かれ、その度に架けかえられ、橋がない日々が続くことも多かった。

本能寺の変の翌日、光秀は京都を発し、近江・安土城へ向かおうとした。信長の拠点を押さえ、近江を平定して、信長が持っていた権力を掌握しようとしたのだ。ところが、この瀬田の唐橋が焼かれたことで誤算が生じる。当時の唐橋は南近江の有力豪族で、瀬田城主の山岡景隆が信長の命令で築いたものだった。光秀もそれは承知しており、「明智と同心仕候へ」(味方してくれ)と使者を出していた。しかし、山岡は「信長公御厚恩浅からず」とそれを拒否し、橋を焼いて逃げてしまった。

思わぬ形で近江への唯一ともいえる交通路が断たれた光秀は、先遣部隊だけを舟で渡し、たもとに陣営をもうけて橋の修復を命じた。そして自らはやむなく坂本城へ入ったのである。2日後、どうにか橋は渡れるぐらいまで修復され、ようやく光秀軍は瀬田川を琵琶湖東側へ渡り、安土城を押さえることに成功。しかし、それから8日後の6月13日、光秀は「山崎の戦い」で秀吉に敗れ、あえない最期を遂げる。この約2日間のロスは光秀に残された時間を考えると手痛い誤算のひとつだったのかもしれない。

琵琶湖の西側に点在する、これらの史跡は、当時を必死に生きた光秀はじめ、人々の息遣いを生々しく伝える。琵琶湖に暮れゆく夕日、かつて信長も光秀も同じ風景を見ていたのだろうな、と思うと胸を熱くせずにはいられなかった。

文・上永哲矢

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