【主君を7度変えた男】藤堂高虎の戦国処世術

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【主君を7度変えた男】藤堂高虎の戦国処世術

藤堂高虎といえば、まず思い浮かぶイメージは「築城の名手」でしょうか。
生涯携わった城の数は20にも及ぶと言われています。

しかし、高虎は「変節漢」と呼ばれ、軽蔑されることもありました。
それは、彼が生涯に7度も主君を変えたことが原因だったのです。

彼はいったいどのように戦国の世を渡っていったのでしょう。彼なりの処世術がそこにはあったのです。

後の厚遇につながった心遣い

「後の主従・徳川家康と藤堂高虎」
「後の主従・徳川家康と藤堂高虎」

近江国に生まれた高虎は、浅井長政に仕えました。
長政の没後は阿閉貞征、磯野員昌、津田信澄と主君を変えていきます。それからの数年は浪人生活をしていたようですが、ついに羽柴秀長という主に恵まれました。

そこで彼は戦功を挙げただけでなく築城の技術を発揮したのです。
そのため、聚楽第に徳川家康の屋敷を造るに当たり、秀長に作事奉行に任命されました。

設計図を目にした高虎は、警備上の問題を見つけました。そこで独断で設計を変更し、費用は自分の持ち出しとしたのです。
屋敷の完成後、家康が高虎に設計図と違うことを問うと、高虎はこう答えました。

「天下の武将・家康様にご不慮があれば、それは私の主君・秀長の不行き届き、ひいては秀吉様の面目に関わるので、私の一存で変更しました。ご不興であればお手討ち下さい」

これを聞いた家康は、高虎の心遣いに感じ入り、以後2人は親しくなったそうです。

このこともあってか、関ヶ原の戦い以降、高虎は家康に仕えるようになります。家康が死の床に就いたときは、外様大名で唯一、枕頭に侍ることを許されました。それほどの深い信頼を寄せられていたのは、ひとえにあの時の心遣いがあったからこそなのです。

自分を評価してくれる人に仕えたかった高虎

「津城の藤堂高虎銅像」
「津城の藤堂高虎銅像」

秀長の元で武将と築城の才能を開花させた高虎ですが、秀長は病死してしまい、後を継いだ秀保に仕えることになりました。

しかし秀保はわずか17歳で亡くなってしまいます。
高虎は出家しましたが、才能を惜しんだ秀吉に呼び戻され、5万石加増の大名となったのです。
ただ、秀吉の死去直前になると、前述のようにかねてから親しかった家康により接近していきました。

確かに高虎は主君を何度も変えています。
しかし、若い頃の主君たちは彼の才能を評価してくれなかったために、高虎は主を変えたまででした。
実際、才能を高く買ってくれた秀長や家康にはその死まで仕えています。

自分の才能を評価してくれる主君を見つけ、そこで働いてこそ武士という考えがあったのでしょう。
当時、これはおかしなことではありませんでした。「忠臣は二君に仕えず」という儒教の思想は、実は江戸幕府が本格的に取り入れてから広まったものだったのです。

でも義理も人情もあります

変節漢と陰口を叩かれることもありましたが、高虎はかつての主君に義理を果たしています。
津田信澄が死ぬとその子昌澄を秀吉に引き合わせてやりました。
昌澄と高虎は大坂の陣で戦うことになってしまいましたが、敗戦後に自害しようとした昌澄を止めたのは、高虎だったのです。そして昌澄の家は幕末まで続きました。

また、何度も主君を変えた高虎は家臣に寛容でした。家臣が彼の下を辞することになると「いつ帰ってきても良い」と送り出し、もし戻ってくれば快く帰参を許したそうです。

このようにして恨みつらみを残さないことも、高虎なりの処世術だったでしょう。

「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」とは、高虎が残した格言だそうです。

様々な人物に仕えてこそ、自分の実力が磨かれるのだと考えていたのかもしれませんね。
決して、高虎の選択が当時「異常」ということではなかったのです。

(xiao)

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