【 まさに命がけの恋!】木戸松子(幾松)、幕末最大のロマンス

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歴史の影に女あり。幕末を駆け抜けた志士たちには影の支えとなったパートナーたちがいました。その中でも有名なのが、幕末の維新三傑といわれる桂小五郎(木戸孝允)の妻・松子(幾松)です。もともと芸妓だった松子との身分差を乗り越えた幕末最大のラブロマンスをご紹介します。

ナンバーワン芸妓だった幾松

「和装の松子」

幾松は、天保14(1843)年に若狭藩士・木崎(生咲)市兵衛の娘として、若狭・小浜に生まれました。母は医者の娘だったそうです。幼少時についての詳しいことは不明ですが、8~9歳頃に京都へ出て、難波常二郎という人物の養女となりました。
そして安政3(1856)年、14歳の時に舞妓デビューし、常二郎の妻だった芸妓「幾松」の後を継いで2代目幾松となりました。美人で頭が良く、芸事も上手だった幾松は、すぐに京都でも屈指の売れっ子芸妓となったのです。

桂小五郎との出会い

桂小五郎
(写真は明治維新後)

文久元(1861~1862)年頃、幾松は宴席で長州藩士・桂小五郎と出会います。小五郎もすぐに幾松に夢中になり、人気ナンバー1の彼女にアプローチしまくって身請けしました。当時幾松には贔屓の富豪がいたのですが、小五郎は張り合って大金を惜しみなく使い、最終的には小五郎の従者だった伊藤博文が刀で相手の富豪を脅して手に入れたんだとか・・・。

そんな風にして結ばれた二人の愛は、幕末の動乱にも揺らぐことはありませんでした。
当時、攘夷の急先鋒だった長州藩は、それを嫌った一派から政変で中央を追われます。そしてその処分撤回を求めて起こした禁門の変で長州藩は朝敵となり、小五郎もまた幕府から追われる身となってしまいます。

元治元(1864)年には、池田屋事件で新選組の襲撃を受けた藩士が殺されましたが、この時、小五郎は辛くも難を逃れています。
しかし探索が厳しくなり、小五郎は一時、ぼろを着て橋の下に潜んでいたこともあったそうです。しかしこの時も幾松は食事を運び、献身的に尽くしました。

また、幾松と新選組局長・近藤勇とのこんな逸話も残されています。
長州藩の控え屋敷に、近藤率いる新選組が改めにやって来ました。幾松は小五郎を長持に隠すと、素知らぬ顔で三味線を弾いていたそうです。
踏み込んできた近藤が長持を開けるように求めると、幾松はこう啖呵を切りました。
「これだけ屋敷の中を改めておいて私に恥をかかせ、それでこの中に誰もいないとなれば、近藤様は責任を取って切腹して下さいますか?その覚悟がおありなら、どうぞお開け下さいませ」
これには近藤もただ「すまん」と引き下がるしかなかったようです。

身分差を乗り越えての結婚

「2人の思い出の地・長州藩控え屋敷は現在、料亭旅館『幾松』となっている」

当初、武士と芸妓では身分差があり、結婚には大きな障害となりました。そこで、幾松を長州藩士・岡部富太郎の養女とすることで、晴れて結婚できたのです。この時すでに小五郎は木戸孝允と改名していたため、嫁いだ幾松は木戸松子という名になりました。
ふたりの結婚は、身分差を乗り越えた正式な結婚として初のケースともいわれているそうですよ。
ちなみにこの直前、2人は城崎温泉に旅行もしており、これが日本初の新婚旅行という説も。坂本龍馬とお龍よりも早いんですね。

そうして新政府の重鎮となった木戸のそばには、いつも松子の姿がありました。友人たちとの集いにも、木戸は常に妻を同伴していたそうです。命がけで自分を守ってくれた妻は、彼にとっても誇りだったのでしょうね。

明治10(1877)年に木戸が亡くなると、松子は出家して夫の菩提を弔い、その9年後、胃病のため43歳で亡くなりました。

京都の料亭「幾松」には、幾松が桂を隠したという長持や部屋などが保管されています。条件が合えば見学もできるようですので、京都旅行の際にいかがでしょうか。

(xiao)

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