【大山巌と西郷隆盛の関係とは?】生涯軍人として生きた男の苦悩

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【大山巌と西郷隆盛の関係とは?】生涯軍人として生きた男の苦悩

明治期に活躍した軍人は多くいましたが、中でも有名な人物の一人が薩摩出身の大山巌(おおやまいわお)です。日清戦争、日露戦争で活躍し、東郷平八郎と対を成して陸の大山、海の東郷と称されました。また彼は、維新三傑の一人として名を馳せ、西南戦争で戦死した西郷隆盛とも強いつながりをもっていました。

今回は、大山巌の幕末から明治期にかけた活躍と西郷隆盛との関係性、西郷が西南戦争で死んだ後の大山について解説します。

西郷隆盛に憧れていた大山巌

大山巌は薩摩藩士の家系に生まれました。彼は従兄弟の西郷隆盛を師と仰ぎ、憧れながら成長していきます。

大山巌と西郷隆盛は従兄弟

大山は現在の鹿児島県である薩摩藩の武士の大山家に生まれました。大山の幼名は岩次郎、通称は弥助といい、大山弥助の名前でご存じの方も多いかもしれません。
父である大山綱昌は大山家の養子ですが、以前は西郷小兵衛と名乗っており、西郷隆盛の父親である西郷吉兵衛の弟という関係にあります。このことから大山と西郷は従兄弟ということがわかりますが、年齢は大きく離れており、西郷が15歳も年上でした。

郷中教育(ごじゅうきょういく)で西郷に師事していた

当時の薩摩藩には郷中という武士の子弟教育のための制度がありました。これは、村ごとに青少年を年齢や妻帯などによって区分し、それぞれのグループに頭を置き、頭が青少年たちの生活を監督する制度です。この中で大山は幼少の頃から従兄弟の西郷に師事し、学問や武芸などを学びます。また、西郷が大久保利通、吉井友実たちと主宰し、多くの維新志士が参加した精忠組にも所属していました。

幕末から明治の大山巌の活躍

幕末から明治にかけての動乱の時代、大山も各地で戦います。ここからは、この時期の大山の活躍について見ていきましょう。

薩英戦争から戊辰戦争まで

大山は同じ藩の有馬新七らに影響を受け、精忠組の中でも過激派に属していました。孝明天皇奪還計画を企てていたところ、藩の事実上の最高権力者である島津久光の命を受けた同組の奈良原繋らに鎮圧され、謹慎処分となります(寺田屋事件)。薩英戦争を機に謹慎が解けた大山は、イギリスの軍事力に衝撃を受け、黒田清隆とともに幕臣・江川英龍から砲術を学びました。

戊辰戦争では銃隊を率いて鳥羽・伏見の戦いから会津戦争まで各地を転戦。学んだ砲術を用いて積極的に砲の改良も行い、通称の弥助から「弥助砲」と呼ばれるほどの威力を発揮します。会津戦争で右股を打ち抜かれ負傷したものの、戊辰戦争全体における新政府軍の勝利に大きく貢献しました。

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世界各国へ留学する

明治に入ると、大山はアメリカやヨーロッパ各地で武器工場や戦争を見学しながら、見聞を深めます。また、得意の砲術の研究も行いました。その中で大山が痛感したのは、日本と諸外国の文明・技術力の差でした。武器や船を造る工場の規模も技術のレベルも、当時の日本と欧米では大きな違いがあったのです。

明治政府では陸軍少将になる

大山の留学中、日本では明治六年の政変が起き、西郷と彼を慕う多数の旧薩摩藩士が新政府を去ります。これを大きく憂いた明治政府は、郷中時代からの西郷と大山の強い絆を考え、西郷を呼び戻す役割を留学中の大山に託そうとします。日本に帰国した大山は西郷を説得しようと試みますが、聞き入れられることはありませんでした。

その後、大山は陸軍少将に任命されます。しかし、明治10年(1877)に西南戦争が勃発、結果として大山は敬愛する西郷と戦うことになってしまったのです。

西郷隆盛の死と大山の苦悩

大山巌
西郷を死なせてしまったことを悔やみ、苦悩した大山。

西南戦争の首謀者である西郷は城山にて被弾し、別府晋介の介錯によって自刃してしまいます。敬愛する西郷の死は大山に大きな影響を与えました。その西郷の死について、大山がどのように感じていたか深く掘り下げていきましょう。

西郷を説得できなかった自責の念

留学から帰国した大山は鹿児島を訪問し政府に戻るよう西郷を説得しようとします。しかし西郷の決意は揺らぎませんでした。西郷の気持ちが変わらないことを察した大山は、「おいの命ば、兄さぁにお預けしもす」と西郷に伝え、尊敬する師と運命をともにしようとします。

しかし、大山の器量と才能を見込み、政府に必要な人材と考えていた西郷はそれを拒絶、大山は鹿児島を去らざるを得ませんでした。1カ月という長い時間をかけても西郷を説得できなかったことに大山は激しい自責の念を持ち、苦しみました。

西南戦争後、大山は多くを語らず

ついに勃発した西南戦争でしたが、新型の武器を持つ政府軍の前に西郷軍はどんどん押されていきます。最後には鹿児島の城山で西郷は自決、西南戦争は終結しました。

皮肉なことに大山は政府軍の一員として西郷と戦い、その死に関わってしまいます。西郷の死体は政府軍により発見されますが、大山は悲しみと動揺のあまり、西郷の遺体を直視できなかったそうです。戦後、見舞金を西郷の妻に渡そうとしますが拒絶され、肉親の姉からも西郷を殺したことを責め立てられます。最愛の師である西郷を説得できず、殺してしまったことに気を病んだ大山は、西南戦争を境に多くを語らなくなってしまいました。

明治天皇の言葉による再起

栃木県那須村演習統監時の明治天皇
栃木県那須村演習統監時のときの明治天皇です。

戦後、失意に沈んでいた大山に明治天皇が声をかけます。天皇も西郷が逆賊となってしまったことを悔やんでいること、また大山の心情に配慮して、これからは大山を西郷の代わりと思って頼りにするという内容でした。天皇から西郷への思い、信頼の大きさと、それに替わる存在になれというメッセージを受けとった大山は発奮します。再び軍人として能力を発揮し、日本の命運に大きく関わる日清戦争日露戦争で勝利に貢献しました。

日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、参謀の児玉源太郎らと日本軍を指揮しながらロシア軍と戦い勝利します。しかし、抜群の功績にも関わらず、同じ薩摩閥で海軍の西郷従道とともに、内閣総理大臣に就くことだけは辞退し続けました。まさに軍人としての生涯を過ごしたのです。

生涯を軍人として生きた大山

満州で撮影された大山巌
日露戦争時に満州で撮影されたものです。大山は生涯軍人として活躍しました。

大山は生涯を軍人として戦い抜き、その功績、人柄は同時代を生きた桂太郎、山縣有朋らの偉人からも高く評価されています。しかし、そんな彼の中には西南戦争で尊敬する西郷隆盛を死なせてしまった後悔が生涯残り続けていました。大正5年(1916)12月10日、74年の生涯を終えた大山は、意識が朦朧とする中で「兄さぁ」とうわごとを言ったそうです。「やっと西郷さんに会えたのね」妻の捨松は大山にそう語りかけました。

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