【幕末のヒーローが愛した二人の女】坂本龍馬の妻と婚約者

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【幕末のヒーローが愛した二人の女】坂本龍馬の妻と婚約者

「あなたの好きな歴史上の人物は誰ですか」という質問があったら、必ず上位に入ってくるのが坂本龍馬です。
もともと土佐の脱藩郷士だった龍馬ですが、敵対する薩摩と長州を結びつけました。また、戦争を避けるべく土佐の後藤象二郎を通じて幕府に大政奉還を働きかけて実現させたのです。
それだけの大仕事をしたのにも関わらず、新政府の人事案に自分の名前を書かなかったので、不審に思った西郷が「坂本さんの名前がありませんが」と尋ねたところ、「儂は役人は好かん。世界の海援隊でもやりますかいのう」と応えた逸話があります。実際にはこのエピソードは創作だとみられていますが、龍馬本人が嫌がったのは本当だそうです。格好よすぎですよね。これでモテないわけがない。龍馬は人間的魅力が溢れていたに違いありません。

龍馬の妻・楢崎龍

龍馬の妻・お龍だといわれている写真。
龍馬の妻・お龍として有名な写真。

そんな龍馬が見初めて妻としたのは、お龍こと楢崎龍でした。お龍は、京都の医師の娘でしたが、父を亡くし一家は貧しく暮らしていました。龍馬は元治元(1864)年にお龍と出会い、その年の8月に祝言を挙げています。慶応2(1866)年1月に寺田屋で龍馬が幕吏に襲撃された際、入浴していたお龍が気付き、裸で龍馬のもとに走って危機を知らせた話は有名です。

この寺田屋事件で負傷した龍馬は、薩摩での静養にお龍を同伴しました。これが日本最初の新婚旅行だと言われています。この旅行中、龍馬はピストルで鳥を撃ったり、高千穂峰の山頂にある天の逆鉾を引き抜いたりと二人で破天荒なことをしています。龍馬はお龍のことを「まことにおもしろき女」と評し、相当気に入っていたようですから、感性が合う夫婦だったのでしょうね。

姉・乙女に宛てた龍馬の手紙(京都国立博物館蔵)
姉・乙女に宛てた龍馬の手紙(京都国立博物館蔵)

※上の画像は現在京都国立博物館で開催中の特別展覧会「没後150年 坂本龍馬」で見ることができます。

この薩摩での日々は、二人にとって人生で最も安らかな日々だったかもしれません。しかし、時代は龍馬を放ってはおきません。再び国事に奔走した龍馬は、慶応3(1867)年11月15日、京都近江屋で暗殺されました。

龍馬の死後、お龍は一旦土佐の坂本家に入りましたが、折り合いが悪く追い出されてしまいます。
その後再婚しましたが、寂しい晩年を送ったそうです。明治39(1906)年1月15日、お龍は亡くなりました。墓碑には「坂本龍馬妻龍子墓」と刻まれています。

もう一人の妻?龍馬を待ち続けた婚約者・千葉さな子

もう一人、龍馬を待ち続けた女性がいました。
江戸で龍馬の剣術師匠だった千葉定吉の次女・さな子です。美貌と抜群の剣の腕で知られ、「鬼小町」と言われる程だったそうです。いつころかわかりませんが、龍馬とさな子は婚約を交わしていたといいます。しかし、龍馬が土佐に帰国したあとは、国事に奔走するために江戸になかなか戻らなくなり、二人はやがて疎遠になってしまいます。

ですが、さな子の龍馬への想いはゆるぎません。千葉家が龍馬のために作った紋付を、さな子は婚約の証として、生涯大事にしました。
「きっと迎えに戻る」などと龍馬は言っていたのでしょうか。その言葉を信じて、さな子は待ち続けました。
龍馬が暗殺されたことで、婚約の証としてさな子が大事にしていた紋付は、愛する人の形見に変わってしまったのです。それでも、さな子は龍馬の妻であり続けようとして生涯独身を貫き、明治29(1896)年10月15日に亡くなりました。
さな子の墓は甲府市にあり、墓碑の裏には「坂本龍馬室」と刻まれています。

甲府市清運寺にある、千葉さな子の墓所
甲府市清運寺にある、千葉さな子の墓所

お龍とさな子が亡くなったのは、ともに龍馬の月命日である15日でした。なんとなく、お龍とさな子、二人の妻が龍馬に抱いた思慕の念を感じてしまいます。

(黒武者 因幡)

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