【歴史秘話】幕末に大役を帯びて渡米した美形の外国奉行 新見正興のDNA

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【歴史秘話】幕末に大役を帯びて渡米した美形の外国奉行 新見正興のDNA

嘉永6年(1853年)アメリカのペリー来航によりはじまった「幕末」。
すでにこの50年以上前から、ロシアやイギリスの船が日本近海に出現したり、オランダ国王が幕府に鎖国をやめるような進言を取っていたものの、幕府が頑なに守っていた外交の砦は、4隻の黒船の大砲の前に崩れ去ります。

当初アメリカが求めていたのは、日本をアメリカの捕鯨船の中継地として使いたいという目的のもとに翌年1854年に結ばれた「日米和親条約」。
そしてその4年後、安政5年(1858年)「日米修好通商条約」が締結され、本格的に日本は開国へと突き進んでいきます。内容的には「不平等条約」とされている数々の条件が盛り込まれたもので、ここから幕府への不満が一気に高まり、明治維新へと流れていくのですね。

この一連の条約締結には、「江戸を焼き払うという脅迫」に対する幕府の苦渋の決断があったわけですが、今日はその激動の流れのなかにいた、一人の侍にフォーカスを当ててみたいと思います。

彼らの礼儀正しい振る舞いはアメリカ人の心を打った!

 

新見正興。凄いイケメン。
新見正興。凄いイケメン。


安政6年(1859年)に外国奉行に抜擢された新見正興豊前守(しんみまさおき・ぶぜんのかみ)
カバー画像の中心にいるのが彼です。

条約締結の翌年に抜擢されたのですから、その心中たるやいかほどのものだったでしょうか。
外国奉行という役職は、同時期に数名が拝命しているため、今でいう外務大臣ではなく外交官(大使)というような立場だったようですが、この新見正興という人物、一部では、「男芸者」というような陰口をきかれることもあるような美男子で、礼儀正しく美しい立ち居振る舞いからも使節団の長として相応しかったようです。

彼は万延元年(1860年)、「万延元年遣米使節」として、70人程の従臣を従えて、日米修好通商条約を批准するため、14代将軍・徳川家茂の署名の入った批准書を携えて、アメリカ船ポーハタン号でハワイ王国を経由して、一ヶ月半かけてアメリカ本土に渡ります。

この遣米使節団には、軍艦奉行の木村喜毅や軍艦操練所教授の勝海舟、通訳としてジョン万次郎こと中浜万次郎の他、福澤諭吉らが、ポーハタン号の護衛という名目で日本の軍艦・咸臨丸で随行しました。
幕末から明治にかけてのキーマンがほとんど乗っている凄い使節団ですね。

ポーハタン号。
ポーハタン号。

アメリカに到着した正興らは、ワシントンで、第15代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンに謁見し、無事に批准書を交わして日米修好通商条約を締結します。

その後、一行は、フィラデルフィアやニューヨークなどを訪れ、行く先々で熱烈な歓迎を受けます。
新見正興らの使節団が馬車でブロードウェイを行進したときの模様を、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンが、「A Broadway Pageant」という詩で、「西の海を越えて、魅惑のニッポンから来た。礼儀正しく、日焼けした頬、二本差しの使節。無表情、剃り上げた頭…」と綴っています。

この詩からも、西洋人から見たら奇異に見える東洋から来た侍が、無表情だが礼儀正しいという好印象を与えていることが窺えます。日本の高い精神性に基づく言動が彼らには大変特殊なものに見えたのでしょう。
任務を果たした一行は、アメリカの軍艦ナイアガラ号で、大西洋からインド洋経由で、約4ヶ月賭けて日本に帰国しました。
この大役を果たして、日本の近代化・国際化に大きな功績を残した新見正興ですが、幕末の攘夷論(外国人排斥を主張する国粋主義)が高まる中、それほど重用されることもなく、明治維新後に御役御免となり、維新後の混乱期に48歳に病で静かにこの世を去ります。

しかし新見正興ら遣米使節は、アメリカ人の記憶には強く残っているそうで、第6代駐日米国大使ローランド・モリス(在任1917〜1920)や、マッカーサー元帥の甥である第16代駐日大使(在任1957〜1961)のダグラス・マッカーサー二世らが、新見正興の墓参りに訪れたそうです。

結果的には、「不平等条約」と言われて国内の反発が強まり、維新へのエネルギーになった「日米修好通商条約」。
現代でいえば、さしずめ現代のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)のようなものと言えると思いますが、祖国のために命を賭けて遠い異国に渡って大役を果たした新見正興ら150年前の幕末の侍が、現代の世相を見たら何を思うのでしょうか。

驚愕!「花子とアン」に出ていた柳原白蓮とのつながり

 

柳原白蓮。端正で美しい顔立ち。
柳原白蓮。端正で美しい顔立ち。

こうして歴史の影で活躍した正興でしたが、その死後、遺族は困窮し、正興の血を受け継いで美人揃いだった三人の娘のうち、すでに嫁いでいた長女を除いて、次女と三女は芸者となって、その美貌から花柳界を賑わせたのちに、大物に身請けされることとなったとか。
残念ながらその写真は残っていないようですが、調べたら驚愕の事実が!

なんとNHK朝のテレビドラマで大好評だった「花子とアン」で仲間由紀恵さんが演じていた燁子さんこと柳原白蓮は、この正興の三女、りょうの娘だったというのです。

ただし、生後7日目には白蓮を手放し、柳原前光と正妻である初子に預け、21歳でその短い生涯を閉じるという悲しい一生でした。愛に生きた美しい白蓮の写真には、正興のDNAが残っていたのでしょう。
このように、調べていくと歴史の中に生きた人々の命の糸が、脈々と紡がれて今があるのですね。
その流れを知りながら、歴史を次代へ引き継ぐ責任が、私達にもあるのだと感じたストーリーでした。

副編集長Y

参照元:
新見正興」wikipedia
万延元年遣米使節」wikipedia
柳原白蓮と白蓮事件のまとめ
画像は全てwikipediaより。

 

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