【長良川の戦い】斎藤道三親子の対立と、明智光秀・織田信長への影響

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【長良川の戦い】斎藤道三親子の対立と、明智光秀・織田信長への影響

群雄割拠の戦国時代には、身内同士が敵と味方にわかれて戦うことも少なくありませんでした。やむを得ず対立する場合もありましたが、起こるべくして起こったといえそうな戦いもあります。その一つが、斎藤道三親子による「長良川の戦い」でしょう。二人はなぜ対立するようになったのでしょうか?

今回は長良川の戦いについて知りたい人に向けて、合戦が起こった理由と経緯、織田信長の動向や、明智光秀への影響などについてご紹介します。

合戦が起こった理由

長良川の戦いが起こった裏には、道三親子のすれ違いがありました。どのような理由で二人はすれ違ったのでしょうか?

美濃国主の地位を譲った斎藤道三

天文11年(1542)斎藤道三は土岐氏を追放して美濃(現在の岐阜県)の国主になりました。油売りの父親とともに親子二代で国主まで成り上がった道三でしたが、天文23年(1554)には隠居します。これにより嫡男・斎藤義龍は、美濃守護代の斎藤氏の家督を継ぎ、稲葉山城主となりました。

道三と義龍の不仲が深刻化する

しかし、隠居した道三は、義龍の弟である孫四郎と喜平次を「利口者」だと溺愛するようになり、義龍のことは「おいぼれ者(馬鹿者)」と見下すようになります。そのため、弟たちは次第に義龍を侮るようになり、道三と義龍の仲は悪化の一途をたどりました。このような状況から義龍は、父は自分の相続権を廃して弟を跡継ぎにするのでは…と考え始めます。そこで対抗手段の策を練り、病にふせるフリをして奥にこもったのです。

長良川の戦いの経緯

舞台となった長良川と、斎藤氏の居城があった稲葉山(金華山)

道三と不仲になった義龍は、ついに行動を起こします。そして、これが長良川の戦いへと発展していくのです。

二人の弟に一計を図る

義龍は、伯父(諸説あり)・長井道利を使って「自分は重病でもう長くはない。最後に直接伝えたいことがあるので来てほしい」と弟たちを自分のそばに呼び寄せました。道利にならって刀を置いた二人は、対面の席で酒を振る舞われすっかり酔ってしまいます。そして、そのすきに義龍の寵臣・日根野弘就によって殺害されたのです。

義龍は使者を送り、この顛末を道三に伝えました。驚いた道三は急いで城下から逃走。長良川を越えて山県の大桑城まで逃れましたが、情勢は徐々に緊迫し、ついに合戦が始まります。

美濃家中に支持された義龍

道三は鶴山に布陣し、道三の娘婿である織田信長も木曽川・飛騨川を越えて大良の戸島、東蔵坊あたりに陣所を構えました。義龍軍が長良川南岸に動いたことをきっかけに道三軍が長良川まで進軍し、両軍は北岸で激突します。

斎藤氏には西美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)と呼ばれる重臣がいましたが、彼らをはじめ斎藤家中のほとんどは義龍を支持しました。義龍軍が約17500人だったのに対し、道三方の動員はわずか2700人ほど。美濃国主になるまでの経緯もあり道三に味方するものは少なく、兵力は義龍軍が優勢でした。

乱戦となり、道三敗れる

当初は優勢に戦っていた道三でしたが、両軍とも全軍突撃を命じて乱戦になったあとは、兵力差を埋められなくなります。押し寄せてきた義龍勢により道三の首が斬り落とされ、ついに合戦は終了。その首は元家臣の小牧道家によって道三塚へ手厚く葬られました。

戦が終わると、義龍は出家して「范可/飯賀(はんか)」と名乗るようになります。『信長公記』によれば、これは唐の故事に登場する名前で、やむを得ない事情で父親を殺した者を示しました。

織田信長はどう動いたか?

浄厳院蔵の織田信長像です。

長良川の戦いが起こったころ、信長は道三と同盟関係を結んでいました。また、道三の娘・濃姫が正室だったため、姻戚関係にもあったのです。このとき信長はどう動いたのでしょうか?

援軍を派遣するも間に合わず…

信長は義父である道三に味方しました。道三は戦いを有利に進めていたものの兵力が少なく、さらに家臣の寝返りなどもあり不利な状況に陥ります。そこで信長は、義父の救済のために援軍を派遣。ところが、この織田軍は間に合わず、道三は討たれてしまったのです。

信長自ら殿(しんがり)をつとめて退却

道三の死後、義龍軍は信長の陣所にも突撃してきました。両軍は大良の河原で激突し、信長はそのなかで道三の死を知ります。これにより退却することになった信長軍ですが、このとき信長は自ら殿を引き受けました。すべての兵を退かせて舟で川に一人残った信長は、川端まで迫った義龍軍の騎馬を鉄砲で撃退。こうして追撃を払いのけ、無事に帰還したのです。

道三の死による尾張への影響に対応

道三の死は信長の領地である尾張国内にも影響しました。義龍に呼応した岩倉織田家当主・織田伊勢守信安が清洲近くの村に放火したため、信長も岩倉織田家の領地に攻め入って岩倉付近を焼却。また信長の織田弾正忠家 (勝幡織田家)も義龍に呼応し、信長の弟・信行を擁して信長から離反しようとします。この不穏な動きは、のちに織田弾正忠家の家督争いへと発展していきました。

明智光秀への影響とは

本徳寺所蔵の明智光秀像です。

明智光秀は叔父・明智光安とともに道三に仕えていました。光秀はこの戦いでどのような影響を受けたのでしょうか?

道三に味方し、明智城を攻撃される

道三側に味方した光秀はこの戦いで敗者となり、義龍に居城・明智城を攻められました。明智城代の明智光安は、弟の光久と一族870人あまりを集めて籠城しますが、義龍軍は約3700人の兵力で2日間も攻撃を続けます。こうして明智城はついに落城。光安は明智家の再興を光秀に託し、弟や妻、側室らとともに自刃しました。これにより明智一族は離散し、城を脱出した光秀は妻・煕子(ひろこ)とともになんとか逃げ延びたのです。

越前国へ逃れ、朝倉義景を頼る

居城を失った光秀は、浪人としての生活を余儀なくされました。そして、のちに越前国の朝倉義景を頼り、そこに10年間身を寄せることになったのです。この時期の光秀の動向については諸説ありますが、越前にいたことは相模・遊行寺の31代住職・同念上人が記した『遊行三十一祖 京畿御修行記』に記述があり、確かなことがわかっています。その他にも、信長士官前は医者として暮らしていたという説も存在しています。

美濃侵攻により美濃国は信長の手に

長良川の戦いで勝利した義龍は、その後5年ほどで急死します。のちに斎藤家の家督を継承した龍興も、信長の美濃侵攻によって没落し美濃を追われました。道三がその父とともに親子二代にわたって手に入れた美濃も、結局はほかの武将に奪われる結果となったのです。そのきっかけは、道三と義龍による長良川の戦いだったといえるでしょう。
国盗りの舞台となった美濃は、やがて信長の支配下となりました。

 

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