【前田利家】傾奇者から大名へ!戦国を駆け抜けた男の人物像とは

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【前田利家】傾奇者から大名へ!戦国を駆け抜けた男の人物像とは

奇抜な格好を好み、巧みな槍さばきから「槍の又左」と呼ばれた前田利家。一時は浪人になりながらも、戦国の世を駆け抜け大名にまで上り詰めた人物です。武功を上げる豪胆さを持つ反面、正妻・まつからは「ケチ」と言われていたと伝わる利家とはどのような人物だったのでしょうか。

今回は、利家の生い立ち、浪人となった経緯、義を貫いた晩年、利家の人物像などについてご紹介します。

「傾奇者」から「槍の又左」へ

若き日は「傾奇者」とされた利家。生まれから武功を上げ始めた青年時代を振り返ります。

荒子前田家当主の四男として誕生

利家は、天文7年(1539)12月25日に尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれます。幼名は犬千代といい、織田家筆頭家老の林秀貞のもとで与力となっていましたが、天文20年(1551)頃から織田信長の小姓となります。若き日の利家は派手、奇抜な身なりを好み傾奇者とされていました。この点、周囲が驚く行動を好んだ若き日の信長と通じる一面があったといえるでしょう。

赤母衣衆筆頭に抜擢

愛知県名古屋市、荒子駅前にある前田利家公初陣之像

若き日の利家は血気盛んな青年で、勇猛果敢に戦い武功を上げていきます。天文21年(1552)の萱津(かやづ)の戦いでは、敵の首級一つを上げて初陣を飾りました。元服し前田又左衞門利家と名乗った利家は、稲生の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも敵を討ち取ります。永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも従軍、得意の槍で功績を上げ「槍の又左衞門」や「槍の又左」などの異名で呼ばれるようになります。これらの武功から、利家は信長直属の精鋭部隊である赤母衣衆(あかほろしゅう)筆頭に抜擢。信長の命のもと数多くの戦場を駆け巡ったのです。

浪人時代と帰参

順調に出世街道を進んでいるように見えた利家でしたが、ある事件をきっかけに信長を激怒させてしまいます。

拾阿弥を斬殺

赤母衣衆筆頭となった同じ年に利家は、まつと結ばれ長女の幸を授かりました。順調に人生を歩む利家でしたが、その翌年に「笄(こうがい)斬り」と呼ばれる事件をおこします。きっかけは信長の寵愛を受けていた同朋衆の拾阿弥が利家の笄(結髪用具)を盗んだことでした。大切にしていた笄を盗まれた利家は、拾阿弥を成敗すると憤りましたが、信長が取り成したことで大事にはなりませんでした。しかし、拾阿弥はその後も利家に非礼な態度を続けたため、信長の面前で拾阿弥を斬殺し利家は出奔してしまったのです。

出仕停止処分

拾阿弥の斬殺は信長を激怒させ、利家の成敗は避けられない状況でした。この窮地を救ったのが柴田勝家や森可成らです。彼らが助命に尽力したことにより、利家の罪は減刑され出仕停止処分となりました。

出仕停止となった身では、当然これまでのような生活はできず、利家は浪人として過ごします。浪人の身となった利家は、熱田神宮社家である松岡家の庇護を受けながら織田家への帰参の道を模索し、ある方法を思いつきました。

無断参戦

利家が考えた織田家へ帰参する方法とは、織田軍と共に戦場で戦うことでした。戦場で武功を上げれば出仕停止の処分が解かれると考えたのです。利家は桶狭間の戦いに無断参戦、今川義元率いる2万5000人の大軍を相手に奮戦し計3つの首をとるも、この戦いでの帰参は許されませんでした。

利家の帰参が許されたのは、永禄4年(1561)のこと。無断参戦した利家は豪傑として知られた斎藤家重臣の家臣で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛を討ち取ります。ほかにも首級を上げた利家は、戦功が認められ2年ぶりに帰参が許されたのです。

帰参と家督相続

帰参が許された利家は永禄12年(1569)、信長の突然の命令により前田家の家督を相続することになります。当時、父の利春はこの世を去り前田家の家督は長兄の利久が継いでいました。信長が利家に前田家の家督を相続させた理由には、利久には実子がいないことにくわえ、病弱で長い間戦場に出ていないことも影響したといわれています。

織田信長の死

前田家の家督を継いだ利家ですが、信長の死によって大きな決断を迫られることになります。

清洲会議

清洲会議が開かれた清洲城

明智光秀による謀反「本能寺の変」で信長が討たれたことにより、織田家は継嗣問題に直面しました。武将たちのさまざまな思惑が渦巻くなか、信長の後継者を決める清洲会議がおこなわれます。

会議では、信長の次男の織田信雄と三男である織田信孝が後継者の地位を主張。しかし、山崎の戦いで明智軍を破り、信長の仇を討った秀吉が会議を優勢に進め、信長の嫡孫である三法師を後継者としました。後継者決定の過程で秀吉と勝家は対立し、利家はその後の人生を左右する大きな決断を迫られます。

秀吉と勝家のあいだで

秀吉と勝家の間で起こった対立は利家の心を苦しめました。利家は秀吉が足軽時代だった頃から夫婦ぐるみで親交を深め、子どものなかった秀吉夫婦に四女の豪姫を授けるほどでした。一方、勝家との信頼関係もとても深く、「笄斬り」の件で助命に尽力してくれたことに恩義を感じていました。どちらとも戦いたくはないと葛藤する利家でしたが、最終的には意外な行動をとります。勝家と秀吉が対峙した「賤ヶ岳の戦い」で柴田軍として布陣した利家は、突然戦線を離脱。秀吉が有利となる行動をとったのです。

まつに救われた利家

賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦線離脱は、秀吉の勝利を決定づけました。しかし、利家は勝家側についた理由を秀吉に問われ、またも苦境に立たされます。このピンチを救ったのが、利家の正妻・まつでした。まつは秀吉と直接会い、利家の心情や敵対する意思がないことを伝えました。その結果、利家はこの危機を乗り越えることができ、秀吉の家臣になることができたのです。

利家の晩年

石川県金沢市「金沢城公園」にある前田利家公像

秀吉の家臣となり奮戦した利家は、天正13年(1585)に能登・加賀・越中を領土に持つ大名となりました。利家の晩年は秀吉の息子である秀頼の守役を任じられるなど、より一層の信頼を秀吉から寄せられています。利家は慶長3年(1598)嫡子である利長に家督を譲りますが隠居はせずに、五大老の一人に選ばれました。

秀吉の死後も、利家は大きな影響力を持ちます。ルール違反ともいえる強引な婚姻政策を進めていた徳川家康に対して、病に侵された身でありながらも利家は激しく反発。家康は利家との対立を望まず和解しており、のちに天下人となる家康に対しても大きな存在であったことがうかがえます。

家康との騒動の直後、利家の病状は悪化。慶長4年(1599)閏3月3日に、大阪の自邸で亡くなりました。

利家の人物像とは?

利家の人物像を振り返ってみましょう。

晩年まで傾奇者を好んだ

青年時代は傾奇者で通っていた利家は、晩年においても傾いた若者を好んだといわれています。この時代の有名な傾奇者といえば、義理の甥にあたる前田利益(慶次郎)です。前田慶次の名で知られる傾奇者と利家の仲は良くなかったといわれていますが、同時代の史料や利家の回顧録には不仲に関する記述がありません。利家は慶次の父にあたる利久から前田家の家督を奪い取った人物です。それが負い目であった可能性は否定できませんが、傾奇者としての生き方を貫いた慶次に好感を持っていたとも考えられます。

前田家の決済はすべて自分で

当時としては扱えるものが少なかった算盤を愛用していた利家は、前田家の決済をすべて自分で行っていました。これは、浪人時代の苦しい生活で金銭の大切さを学んだからといわれています。度が過ぎる節約や倹約に励む利家の姿をみて、まつはケチとまで口にしたほどです。しかし、利家は北条家が滅んだあと困窮する大名にお金を貸しており、遺言においても「こちらから借金の催促はするな、返せない者の借金はなかったことにするように」と利長に残しています。利家がただのケチではなく、義理人情がある人物だということがうかがえます。

戦国時代を駆け抜けた義に熱い人物

短気で喧嘩っ早い傾奇者の青年は、戦国時代を駆け抜け義に熱い人物へと成長しました。義に熱く恩を忘れない人物だからこそ、葛藤し苦しむこともありましたが、その経験が秀吉をはじめ多くの人物の人望を勝ち得たといえるでしょう。

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