板垣退助と言えば、立派なヒゲがトレードマークの自由民権運動の主導者。
おそらく誰もが知っているこのヒゲですが、実は40代半ばに差し掛かってから伸ばし始めたものなのです。なので、少し前の彼の肖像画はヒゲなしなんですよ。正直とても違和感があります。
そんな板垣退助、偉人らしくエピソードには事欠きません。今回は、彼がなかなか面白い人間だということが分かるエピソードをご紹介しましょう。
本当は言ってない!?「板垣死すとも自由は死せず」
自由党を結成した退助は、自由民権運動を旗印に活発な政治活動を展開し、遊説のために全国を訪れていました。
明治15年(1882年)4月6日、岐阜を訪れた退助は、遊説を終えて会場を出ました。会場の階段を降りかけたところで、一人の男が退助に近づいてきます。その手には刃物が握られていました。男の刃は退助を何度も刺し、その場は大混乱となったのです。
歴史上では、ここで退助が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだということになっています。
しかし、実際はどうも違うようです。
「板垣死すとも自由は死せず」とは言っていないが、「吾死するとも自由は死せん」と似たような意味のことを言ったという証言もありますが、他にもいろいろな説があるのです。
土佐弁で「おらを殺したち、自由が死ぬるかねや」と叫んだとか・・・字面にすると、失礼ながら緊迫感がなくなってしまいますが、土佐出身の板垣なら、言ったかもしれないなと思ってしまいます。
また、板垣自身は、刺されたとき「アッと思うばかりで声も出なかった」と後に回想していますし、「痛い痛い、医者を呼んでくれ」と言ったという話もあります。
ではなぜ「板垣死すとも~」と言ったことになってしまったのでしょうか。
後に新聞の取材で、退助の秘書でもあった内藤魯一が叫んだのだけれども、板垣が叫んだということにしたのだそうですよ。確かにカッコイイ言葉ですし、これなら退助の人気も自由党の支持も高まりそうですしね。
で、刺された退助はどうなったのかというと、何か所も刺されはしましたが無事でした。そしてこの後37年も生きたのです。刺されたときは45歳、亡くなったのは82才でした。
ちなみに、加害者の男は服役後に退助のもとに謝罪に訪れたそうで、退助はこれを快く許したそうです。さすが明治維新の偉人!
超現実主義の男・板垣退助
退助は迷信や神について、まったく信じていなかったそうです。当時としては個性的だったわけですね。
なので、神社のお守りをトイレに捨てて、罰が当たるかどうかを試したそう。・・・まあ、何も起きませんよね。
また、食べると死んでしまうという食べ合わせが良くないもの(うなぎと梅干しとかスイカと天ぷらとか)を食べてみて、何も起きないことを確かめたということです。
当時からすれば、とんでもないことをするヤツと思われていたかもしれません。
相撲大好き過ぎて家に相撲道場
退助は武術に通じていましたが、中でも相撲には入れ込んでいました。
自宅に相撲道場を造って相撲振興に努め、そこで多くの力士を育てました。ここまで来るともう「親方」ですね。
国技館の名称の決定にも関わりましたし、葬儀のときには力士16人が退助の棺を担いだといいます。
筆者は結構相撲好きなので、これから相撲を見るときには退助に感謝しながら見ようと思いました。
幼馴染の後藤象二郎とルイ・ヴィトンで一緒にトランクを買ってみたりと、偉人らしからぬ逸話が多い退助ですが、そんな逸話が多いことも彼が人に愛された証拠だと思います。
明治の偉人はほぼみんな面白い逸話を持っているので、調べてみるのもいいですね。
(xiao)
関連記事
【新選組も坂本龍馬も】よくぞこれだけの人物が同世代に!学年別でみる幕末の志士たち
コメント