戦国時代最強の武将の一人として名高い武田信玄の跡を継いだ武田勝頼。そんな勝頼を支えたのが、妻の北条夫人です。織田信長、徳川家康、上杉謙信、北条氏康、今川義元らの強力な軍勢に囲まれた地で、戦争や同盟を駆使して渡り合った甲斐武田家と運命をともにした夫人の生涯とはいかなるものだったのでしょうか。
今回は、北条夫人の生い立ちや人物像の他、夫の勝頼とともに迎える最期などについてご紹介します。
武田勝頼の妻は2人いた
信玄の死によって家督を継いだ勝頼はすでに婚姻を結んでいましたが、このときの妻は龍勝院(りゅうしょういん)という人物で、北条夫人ではありませんでした。ここでは、勝頼の2人の妻それぞれの血縁関係や、夫人が継室(後妻)となった経緯について見ていきます。
織田信長の養女・龍勝院
信濃(現在の長野県)への侵攻をもくろんでいた甲斐(現在の山梨県)の信玄は永禄8年(1565)ごろ、信長の脅威を取り除く政略的な意図で、信長の養女を子の勝頼の妻に迎え入れます。この養女が龍勝院です。
龍勝院は永禄10年(1567)に嫡男の信勝を出産しますが、4年後に死去。勝頼はわずか5年ほどで妻を失い、さらにその2年後には父の信玄も病でこの世を去ってしまうのでした。
北条夫人が継室となる
家督を継いだ勝頼は、再び敵対関係に入っていた織田・徳川連合軍に長篠の戦いで敗れ、馬場信春、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊、原昌胤(まさたね)といった歴戦の勇将たちを失うと、危機的状況を挽回すべく周辺国との関係改善に着手します。そして、天正5年(1577)、後北条家との同盟である甲相同盟を強化するために迎えられた継室が、北条夫人でした。
北条夫人の生い立ちと人物像
滅亡の影が忍び寄る武田家に嫁いだ夫人は、どんな生い立ちで、周辺国とどのように関わり合う人物だったのでしょうか。上杉家や後北条家といった勢力それぞれの政略に翻弄された彼女の人物像について掘り下げてみましょう。
14歳で嫁いだ北条夫人
北条氏康の6女とされる夫人は、わずか14歳のとき、甲相同盟を強化する目的で勝頼のもとに嫁いできました。これにより、武田家と後北条家の関係は安定しますが、時をほぼ同じくして越後国の上杉家で謙信の死にともなった後継者争いが勃発します。
兄を思い、夫に尽くした幼妻
謙信の養子で後継者候補の一人だった上杉景虎は、夫人の兄です。そのため勝頼は、同じく夫人の兄だった北条氏政の頼みもあって、一度は景虎を上杉家の後継者として支持します。しかし、のちに外交方針を転換して景虎の対立相手だった上杉景勝(かげかつ)と和睦。景虎は後継者争いに敗れることとなり、自害してしまいました。
これにより甲相同盟は解消され、力の均衡が崩れて周辺国との関係が再び不安定になると、機に乗じて武田家の領土に織田・徳川軍が侵攻してきます。窮地に陥った勝頼は、夫人の身を案じて後北条家に返そうとしますが、夫人はこれを拒否。勝頼と運命をともにする道を選び、武田家の安泰を願って武田八幡宮に願文を奉納しました。この願文は現存しており、込められた切なる思いの数々を読み取ることができます。
壮絶な甲斐武田氏の最期
後北条家との同盟が破綻した上、そのきっかけのひとつである上杉家との同盟もうまく機能しなかった武田家には、滅亡へのカウントダウンが始まっていました。後北条家に戻れば安全に暮らせる選択肢がありながら、勝頼に寄り添うと決めて揺るがなかった夫人。その最期とはどのようなものだったのでしょうか。
同盟の破綻と甲州征伐
他勢力との新たな同盟や真田昌幸の活躍もあり、しばらくは一進一退の状態を保っていた勝頼でしたが、天正10年(1582)2月、織田、徳川、北条の軍が武田家の各領土に一気に攻め入る甲州征伐を開始します。武田軍は、四方から敵が押し寄せる圧力に屈した配下の寝返りや敵前逃亡が相次ぎ、敗走を重ねました。
勝頼と北条夫人の最期
同年3月、逃げ場を失った勝頼一行は、武田家ゆかりの地である天目山の棲雲寺(せいうんじ)を目指しますが、織田軍の滝川一益(いちます/かずます)に追いつめられて万事休すの状態に陥ります。勝頼と嫡男・信勝、そして夫人はこの地で自害し、ここに甲斐武田家は滅亡。夫人はわずか19年の生涯を終えたのでした。
辞世の句を2首残した
群雄に囲まれた戦国の地で、兄たちとの死別や敵対関係という苦しい現実にさらされながらも、夫・勝頼と武田家への献身を最後まで貫き、運命をともにした北条夫人は、辞世の句を2首残しました。
「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」
(【訳】黒髪が乱れるかのように果てしなく世は乱れ、あなたを思う私の命も露のしずくのようにはかなく消えようとしています)
「帰る雁 頼む疎隔の言の葉を 持ちて相模の国府(こふ)に落とせよ」
(【訳】南に帰っていく雁よ、長い疎遠のわび言を小田原に運んでください)
夫人については、武田家と縁の深かった恵林寺(えりんじ)の僧、快川紹喜(かいせんじょうき)が「これまでの甲斐にはいないほど徳を持った方」などと評したという言い伝えが残っています。現存する願文の字や、これらの辞世の句の美しさからも、夫人の優しさや意志の強さといった人間性が想像できるのではないでしょうか。
勝頼への思いと郷愁を胸に、あの世へと旅立った夫人は、終焉の地に築かれた勝頼の墓の隣で今も静かに眠っています。
<関連記事>
【激闘の末に】長篠の戦いで討死した『武田四天王』の名将たち
【赤備えの源流 】武田二十四将のひとり、甲山の猛虎・飯富虎昌
【本当は美談じゃなかった!?】「敵に塩を送る」のウラ話
コメント