第10回「西郷隆盛の銅像の真実を探る!」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】

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幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第10回のテーマは「西郷隆盛の上野の銅像」です。

西郷隆盛といえば、東京上野の銅像が一般によく知られています。「西郷さん」といえば、真っ先に上野の銅像の顔を思い浮かべる人も多いことでしょう。
しかし一説には、あの銅像の顔は西郷本人にあまり似ていないともいわれています。西郷の妻であった糸子が、そう証言しているというのです。真相はどうだったのでしょうか。

没後12年目の復権

上野公園に建っている西郷隆盛の銅像

銅像が造られることになったのは、明治22年(1889)2月11日に明治憲法が発布されたとき、西郷に正三位が追贈されたことがきっかけでした。これは西南戦争を起こした西郷の賊名が12年ぶりに解消されたことを意味しており、以後は西郷を堂々と顕彰することができるようになったのです。

さっそく西郷の親友であった吉井友実が銅像の建立を計画し、同年11月に趣意書を発表。賛同者を広く募ったところ、25000余人の有志から、32000円(当時)余りの寄付金が寄せられました。宮内省からも500円が公的に支出され、銅像の製作がスタートします。

西郷は写真を残さなかったため、イタリア人画家キヨッソーネの描いた肖像画をもとに像はデザインされました。ただし、当初は陸軍大将の軍服を着た姿となる予定でしたが、軍服を着せることには反対する者もまだ一部にあり、最終的に犬を連れて狩猟に出る着物姿となりました。

このデザイン決定の遅れにより、製作スケジュールも延引し、着工されたのは明治26年(1893)のこと。その間の明治24年(1891)には発起人の吉井友実が没しており、西郷が復権された姿を目の当たりにできなかったのは残念なことでした。

銅像はキヨッソーネの肖像画をもとにデザインされました

明治31年の除幕式

銅像の原型製作を担当したのは、当時、東京美術学校の教授をつとめていた彫刻家の高村光雲です。高村は木像の彫刻家であったため、まず木材で原型を彫刻し、それができたあと型取りをして銅を流し込むという製作方法になりました。
当時すでに代表作の「老猿」を完成させていた高村は、西郷像の彫刻でも実力を遺憾なく発揮し、まるでそこに本物の西郷がいるかのような生き生きとした像を彫りあげました。

完成したのは明治30年(1897)。しかし、当初予定していた皇居前広場に設置する案に反対する声があり、代案の上野公園に落ち着くまでにまた少し時間がかかります。ようやくもろもろの問題が解決し、銅像の除幕式がおこなわれたのは、明治31年(1898)12月18日のことでした。
除幕式は盛大におこなわれ、天候にも恵まれた上野公園には800人余りの参列者が集いました。

式は午前10時から銅像建設委員長の樺山資紀の報告があり、次いで除幕委員長の川村純義の挨拶、来賓の山縣有朋が祝詞を読み上げました。そのあと勝安芳(海舟)が演説をする予定でしたが、本人が辞退したため、祝歌四首を川村が代読して披露しました。
その他の参列者のうち、おもな者をあげると、西郷従道、大山巌、黒田清隆、土方久元、谷干城、榎本武揚といった明治政府の重鎮のほか、西郷の未亡人・糸子、長男の寅太郎、それにかつてのイギリス公使アーネスト・サトウの姿があったことは特筆されるでしょう。

いよいよ除幕となり、西郷の姪(弟・従道の娘)にあたる13歳の西郷桜子が紐を引くと、銅像をおおう白布が取り払われます。台座を含めて3・7メートルの巨像が姿を現し、参列者たちは歓喜の拍手で迎えました。
しかし、そのなかで一人、糸子だけは不満そうに、「うちの人はこんな人ではなかった」と口にしたといいます。どういう意味だったのでしょうか。

西郷隆盛の妻・糸子

糸子の発言の真意とは

糸子の発言は一般的に、「銅像の顔が西郷に似ていなかった」というように解釈されていますが、そういう意味ではないと見る向きもあります。発言の真意を探るためには、まずこのエピソードの出典を確認しなければなりません。
ところが、このエピソードは、西郷に関するあらゆる史料を見てみても、不思議なことにどこにも記されていないのです。エピソードを紹介する西郷関連本のたぐいにも、出典が不明のままになっている。どういうことなのでしょうか。

実はこのエピソードは、文豪・海音寺潮五郎が書いた小説『西郷隆盛』のなかにだけ出ているものなのです。
といっても、海音寺が創作して書いた話というわけではありません。本文を引用すると、次のとおりです。

元参議院議員(昭和四十四年末法務大臣)の西郷吉之助さんは隆盛の嫡孫だが、この銅像の除幕式の時にあったという逸話をぼくに聞かせてくれたことがある。
除幕式があるというので、当時まだ鹿児島にいた隆盛未亡人線子(いとこ)は参列するために隆盛の遺児達をつれて東京に出てきた。
式の当日、西郷家の人々は、隆盛の弟である侯爵従道をはじめとして、遺族席に列なっていたが、ひもが引かれ、銅像がぬっと出てくると、線子夫人はおぼえず嘆声をあげた。
「アラヨウ! 宿ンしはこげんお人じゃなかったこてエ!(あれまあ! うちの人はこんな人ではなかったのに!)」
すると、隣にいた従道が夫人の足を踏んで、「シッ!」とたしなめた。
(海音寺潮五郎『西郷隆盛』第一巻より)

ここに記されているとおり、エピソードは海音寺が西郷の孫の吉之助大臣から直接聞いたものだったのです。この本は歴史書ではありませんが、吉之助から聞いたと明記してある以上、偽りではないでしょう。エピソードの出典は、まさしくここにありました。
さらに吉之助は、海音寺に向かってこう付け加えたといいます。

祖母は終生、上野の銅像が気に入りませんでね。「お祖父さまはごく礼儀正しかお人で、相手が人夫のような人であっても、おごったり高ぶったりしなさることはなかった。いつも鄭重なことばづかいでございもした。まして、あげんぶざまななりで人様の前に出なさることはございもさんじゃった」と、おりにふれては、わたしらに言ったんですよ
(同書)

これによって、糸子が「こんな人ではなかった」といった真意が、銅像の顔が似ていないという意味でいったのではなく、「あんな粗末な格好で人前に出るような人ではなかった」といいたかったということがわかるのです。

現代の私たちからみれば別に気にならない西郷の格好ですが、当人の身内の、まして妻の立場であればそういうことも重大な問題だったのでしょう。立派な軍服か、せめて紋付き袴で正装させて人前に出してあげたかった。糸子のそうした思いが、銅像のエピソードにはこめられていたのです。

 

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