幕末の薩摩藩主・島津斉彬。大河ドラマ「西郷どん」では渡辺謙さんが演じられ、その圧倒的な存在感が話題になっています。さて、実際の斉彬はいったいどんな人物だったのでしょうか。松平春嶽、山内容堂、伊達宗徳とともに幕末の四賢侯のひとりに数えられ、春嶽には「大名第一番の御方」と称せられた、彼の人物像に迫ってみたいと思います。
蘭学かぶれは曾祖父の影響
文化6年(1809)、薩摩藩主・島津斉興の長男として誕生した斉彬は、母・弥姫によって母乳で養育され、才女として有名だった彼女から教育も受けました。これは大名の子供としては異例のことです。
また、曾祖父の重豪には利発さを気に入られ、特に可愛がられました。
この重豪、「蘭癖」大名として有名なお方。知的好奇心旺盛で、ローマ字を書いたり、オランダ語を話せたりもしたとか。斉彬を連れてシーボルトと会ったこともあるのです。
ただ、この蘭癖のせいで薩摩藩の財政は破綻寸前にまで追い込まれてしまったため、重豪に寵愛されていた斉彬が藩主となることに対し、危惧を抱く家臣たちも多かったようです。それは父・斉興も同様で、なかなか家督を譲らず、斉彬が40歳を迎えるという異例の事態となりました。
そしてついに、斉彬の異母弟・久光を藩主にと望む斉興の側室・お由羅や久光派の家臣と、斉彬派の家臣らが衝突。これが世に言う「お由羅騒動」です。この後、嘉永4年(1851)、斉興は将軍から隠居の沙汰を下され、やっと斉彬が藩主の座についたのでした。
望まぬ形で隠居させられた斉興は、斉彬に対して複雑な思いがあったようです…。
集成館事業を推進!
藩主となった斉彬は、富国強兵と殖産興業に尽力します。洋式工場群を建設した集成館事業は、溶鉱炉・反射炉などを製造して製鉄業を確立し、造船や兵器開発への道筋をつけた偉業でした。帆船の帆を作るために紡績事業にも力を入れています。これが、後の明治維新での薩摩藩の躍進に至ったわけですね。
また、斉彬は「君主は愛憎で人を判断してはいけない」「10人が10人好む人材は臨機応変さに欠けるので、登用しない」など、独自の見解を持ち、幅広い人材登用を行いました。ここから取り立てられたのが、意見書を上申した西郷隆盛や大久保利通です。斉彬に大きな恩義と忠誠を抱いた彼らは、斉彬の没後も藩の中心として活躍していくことになるのです。
突然の死!死因は本当にコレラ…?
松平春嶽や伊達宗城など、先進的な藩主たちと交流を持つ中で、欧米の力をよく知る斉彬は、次第に幕政改革を訴えるようになります。しかし、ここで将軍後継問題が発生しました。
斉彬は、病弱だった13代将軍・徳川家定に、分家の篤姫を養女として嫁がせ、幕府との姻戚関係を強化することを目論みます。しかし、次期将軍候補を巡り、大老・井伊直弼と対立。直弼は反対派を粛清する安政の大獄を行い、この結果、直弼が推した家茂が14代将軍となり、斉彬が推した一橋慶喜は落選することとなってしまいました。
斉彬はこれに抗議するため、兵を率いての上洛を考えました。
しかし、鹿児島城下で練兵を視察中に突然発病し、そのまま亡くなってしまいます。享年50(満49歳)でした。
死因はコレラとされていますが、あまりに突然の死だったため、毒殺説もささやかれています。この裏には、隠居に追い込まれた父・斉興や異母弟・久光支持勢力がいるという説もあるんですよ。
ドロドロした争いは家臣間でのことで、斉彬と久光の兄弟仲は良好だったそうです。
また、カメラを趣味とした斉彬は、娘たちの写真を撮るなど子煩悩な一面もありました。もし早逝していなければ、一族の良心としていいおじいちゃんになったのではないでしょうか。
(xiao)
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