幕末になると、尊王攘夷や幕府VS薩長+朝廷や外国の介入など大事件が盛りだくさんで、正直な所、何が何やら・・・という事態になります。その中でも「超」がつくほどの大事件が、生麦事件でした。
薩摩藩士がイギリス人を斬り殺してしまったというあの話です。
事件はなぜ起きてしまったのでしょうか。その後、薩摩藩は大英帝国と戦争を始めるに至るのですが、その経緯をよく見ていきましょう。
生麦事件とは
文久2(1862)年8月21日、当時の薩摩藩主だった島津茂久の父・久光の大名行列は、江戸から薩摩への帰途にありました。
武蔵国橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区生麦)付近に差し掛かった時のこと。
そこへ前方からやって来た騎馬の英国商人・リチャードソンら4人が、止まることなく行列の中へと馬を乗り入れてきたのです。
大名行列に一般庶民が出会ったなら、平伏して通り過ぎるのを待つのが常識中の常識でした。それを無視して馬で逆走してくるとは・・・!と薩摩藩士は刀を抜きます。
リチャードソンたちは、さすがにまずいと引き返そうとしますが、それでかえって行列を乱してしまいました。
そこに迫るのは怒りに燃えた薩摩藩士たち。
結果として、リチャードソンが死亡し、他3人が軽傷を負うという事態になったのです。
何が悪かったかと言えば、あの条約です
庶民は「さすが薩州様」と快哉を叫んでいたようですが、幕府とイギリスはそれどころではありません。
イギリスは米・仏・蘭の艦隊を従え、行列の通行を知らされていないことに抗議し、犯人を差し出すことと賠償金の支払いを求めてきました。
幕府内では、薩摩藩が幕府を困らせるためにわざとやったのだという声まで出て、話は全然まとまりません。
しかも薩摩藩は、架空の人物を犯人として白を切り通したのです・・・。
というのも、最初に日本が結んだ日米修好通商条約がすべての根源でした。
他国とも結ばれたこの条約により、治外法権が認められていたからです。なので、無礼討ちをするのは薩摩藩としてはOKでしたが、イギリス側からすればとんでもないことで、すぐに犯人を差し出せということになったのです。
薩摩藩からすれば、こんな条約は幕府が勝手に結んだのだという思いもありました。
もちろん、リチャードソンたちに非がなかったわけでもありません。
外国人でも大名行列の意味を知っている人たちはいました。が、一方で現地のしきたりを無視して振る舞う人たちもいたのです。
しかし、これは大変なことでした。あの大英帝国を怒らせてしまったのです。
幕府は賠償金を支払いましたが、イギリスは薩摩に向かい交渉を求めたのでした。
薩摩藩VS大英帝国!!
犯人の逮捕と処罰、賠償金を求めたイギリスに対し、薩摩藩の返答は「生麦事件に責任なし」でした。
怒ったイギリスは薩摩の船を拿捕し、これに薩摩藩が砲撃を加えたことで薩英戦争が始まったのです。結局この戦いは痛み分けのような形となりました。
講和のテーブルに付いた薩摩藩は、幕府から借用した賠償金を支払いましたが、犯人については「逃亡中」(もちろん嘘です)として罰しませんでした。
その後、事態は意外な方向へ向かいます。
イギリスは、自分たちと対等に戦い、交渉した薩摩藩を評価するようになり関係を深めていきます。
薩摩藩も欧米の強さを先進性を実感し、攘夷ではなく倒幕の流れができていくのでした。
戦争までした薩摩藩とイギリスが仲良くなるというのも、歴史の面白さかもしれません。
この後、イギリスから軍艦を購入したり藩士を留学させたりと交流が深まり、倒幕へさらに加速していくのは、イギリスの援助が背後にあったからなのですね。
(xiao)
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