全身朱塗りの甲冑を纏った一団を「赤備え」といいます。朱塗りの甲冑は、戦場では遠くからでも目立つため下手な戦いはできません。必然、他の部隊よりも勇ましく戦わねばならないのです。その赤備えを最初に率いたのが、武田二十四将の一人である飯富虎昌(おぶ とらまさ)です。今日10月15日が命日の飯富虎昌の生き様をご紹介しましょう。
武田信玄の側近として
飯富虎昌は、信玄の父・信虎以来の武田家の重臣です。板垣信方、甘利虎泰とならぶ宿老として数々の戦で武功を上げました。宿老の一人として、信玄とともに信虎の追放にも加担しています。1548(天文17)年の上田原の戦いで、板垣信方・甘利虎泰が戦死したため、虎昌は武田家臣団筆頭として信玄を支えます。この虎昌が手勢に朱色の甲冑を着用させたのです。
赤備えの誕生
虎昌は、そのままでは家督を継げない武家の次男・三男などを中心に軍団を編成しました。手柄を上げねば出世できないハングリー集団である虎昌の赤備えは、常に戦場で真っ先に突撃する部隊として名を馳せます。
1553(天文22)年には、虎昌の手勢800が守る内山城を長尾景虎(上杉謙信)と村上義清の連合軍8000に囲まれました。しかし、虎昌は連合軍相手に凌ぎ切ってみせたのです。
また、1561(永禄4)年の第4次川中島の戦いでは、妻女山別動隊を大将として率いるなど勇名を轟かせました。いつしか、虎昌率いる赤備えは、精強武田軍の象徴として他国から恐れられていくようになったのです。
信玄の嫡男・義信の傅役に
信玄の信頼厚かった虎昌は、信玄から嫡男・義信の傅役を任されました。武田軍を率いるに足る後継者として育てるべく、虎昌は義信の教育に心血を注ぎます。『越後野志』によると、第4次川中島の合戦では義信自身が率いる部隊が謙信の旗本と戦い、一時優勢になるなど武功も上げたとされています。順調に成長する義信に、虎昌もどれだけ喜んだことでしょう。
義信事件
しかし、義信と信玄の関係が悪化します。
きっかけは今川義元の討死の後のこと、信玄は弱体化した今川家を攻めるべく駿河に侵攻します。義信の正室は義元の娘だったため、妻の実家を攻める信玄の非道さにふたりの関係は冷え込んでいきます。
悩んだ義信はついに「信玄暗殺」を計画し、虎昌に相談しました。義信を守りたい虎昌は、武田家への忠義と義信への情の狭間で揺れ動きます。
――義信様のまっすぐな気持ちは大事にしたい。
しかし、それでは武田家は守り切れぬ――
そこで、虎昌は決断しました。弟の三郎兵衛(後の山縣昌景・甥とも伝わる)に計画が漏れるように画策したのです。兄の意図を知った三郎兵衛は信玄に密告し、謀反が発覚しました。捕らえられた虎昌は、「自分が首謀者である」と言い続けます。自らが犠牲になることで、義信に翻意を促すとともに義信を守ろうとしたのです。
1565(永禄8)年10月15日、虎昌は切腹しました。
しかし、虎昌が命を懸けて守ろうとした義信も信玄との関係を修復できず、1567(永禄10)年に甲斐の東光寺にて切腹して果てるのです。
虎昌亡きあとの赤備え
虎昌の精鋭を受け継いだのが、弟の山縣昌景でした。武田四天王と賞された昌景の戦いぶりもまた虎昌に劣らぬもので、赤備えは武田家最強部隊として恐れられます。三方ヶ原において徳川家康が、本陣に襲い来る赤備えに死を覚悟した程でした。
武田家滅亡後、武田軍を吸収した徳川家康は、井伊直政に赤備えを任せました。
以後、井伊の赤備えとして数々の武功を表し、赤備え最強説を継承していくのです。
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そして、大坂の陣において、真田信繁も父・昌幸が慕った武田家の武名に肖った赤備えを率いて奮戦し、家康を追い詰めました。
三方ヶ原と大坂の陣、家康は生涯二度、本陣を破られていますが、その2度とも赤備えが関わっているのです。最強の名を不動のものとした赤備えは、戦国の世において花形であり続けたのです。
(黒武者 因幡)
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