【カミソリ大臣:陸奥宗光】波乱の人生から彼の功績を知る!

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【カミソリ大臣:陸奥宗光】波乱の人生から彼の功績を知る!

幕末の動乱後、明治維新によって日本は大きく変わりました。中央官制や外交などあらゆる面で近代化が進み、西洋文明によって生活が激変したことは「文明開化」の言葉でも知られています。しかし、当時の日本は外国との条約で不利な状況にあり、明治政府はそれを是正するのが急務でした。このような不平等条約の改正など、日本外交に尽力したのがカミソリ大臣と呼ばれた陸奥宗光(むつむねみつ)です。
今回は、宗光の生い立ちや政界での活躍、彼にまつわる逸話についてご紹介します。

陸奥宗光の生まれから欧州留学まで

若き日の陸奥宗光
若い頃の宗光です。

明治政府で重要な役割を担うようになった宗光は、どのような出自の人物だったのでしょうか。その生い立ちについて見ていきましょう。

生まれから幕末期

天保15年(1844)8月20日、宗光は紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達千広(宗広)の六男として生まれました。駿河伊達家の子孫で、江戸時代には伊達小次郎、陸奥陽之助などと名乗っています。
国学者で歴史家だった父は紀州藩の勘定奉行として財政再建を担当した人物で、宗光はこの父の影響で尊王攘夷思想を持つようになりました。
安政5年(1858)江戸で安井息軒に師事したのち水本成美に学んだ宗光は、坂本龍馬、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)らと親交を深めていきます。のちに龍馬率いる海援隊にも加わっており、龍馬が暗殺された際は海援隊士15人とともに、紀州藩士・三浦休太郎の犯行を疑って報復のため襲撃事件(天満屋事件)も起こしました。

明治維新後の宗光の動向

維新後の明治元年(1868)に岩倉具視の勧めで外国事務局御用係に就任すると、アメリカとの甲鉄艦(ストーンウォール号)引き渡し締結を成功させます。財政基盤が乏しい新政府にとってその支払いは厳しいものでしたが、宗光は大阪の商人たちに交渉し一晩でこれを借り受けました。
その後は兵庫県知事、神奈川県令、地租改正局長などを歴任して活躍したものの、薩長藩閥政府の現状に怒り、その地位を捨てて和歌山に帰ります。しかし、明治8年(1875)に立法機関の元老院が設置されると、その構成員にあたる議官となりました。

投獄から特赦、そして留学

明治10年(1877)、新政府に不満をもつ士族によって西南戦争が勃発します。このとき土佐の政治団体「立志社」の林有造・大江卓らが政府転覆を謀って挙兵しようとしましたが、宗光はこの土佐派と連絡を取り合っていたことが発覚し投獄されてしまいます。
禁錮5年の刑となり山形監獄に収容された彼は、著作の執筆やイギリスの哲学者・ベンサムの本の翻訳に励んだといいます。そして明治16年(1883)1月、特赦によって出獄したあとは、ヨーロッパに留学して西洋近代社会のシステムや国家学を猛勉強しました。

政界への復帰!陸奥外交で腕を振るう!

陸奥宗光の横顔

投獄や留学など紆余曲折あった宗光ですが、その後は再び政界に復帰することとなります。そこで彼は目覚ましい活躍をみせるのです。

日本初の平等条約の締結を果たす

明治19年(1886)、留学から帰国した宗光は外務省に出仕するようになりました。2年後には駐米公使兼駐メキシコ公使となり、メキシコ合衆国との「日墨修好通商条約」締結に成功します。これは日本初の平等条約として大きな意味をもちました。
その後は第1次山縣内閣で農商務大臣に就任し、続けて第1次松方内閣でも活躍しましたが、薩摩派との衝突を理由にこれを辞任します。辞職後は天皇の諮問機関である枢密院の顧問官となりました。

第2次伊藤内閣で外務大臣になる

第2次伊藤博文内閣が発足すると、宗光は外務大臣として迎えられます。そしてこの期間、明治27年(1894)の「日英通商航海条約」をはじめとしてさまざまな国との条約改正交渉を行い、不平等条約を締結していた国すべてとの治外法権撤廃を成功させました。
また日清戦争が開戦された際は、イギリスやロシアから好意的な中立を獲得し、有利な状態で下関条約を締結に導いています。このように手腕を発揮した宗光の外交は、「陸奥外交」と呼ばれました。

宗光にまつわる逸話について

陸奥宗光の家族
左から妻・亮子、宗光、先妻との長男・広吉です。

明治時代の日本において大きな功績を残した宗光ですが、その人柄はどのようなものだったのでしょうか。ここでは彼の逸話についてご紹介します。

坂本龍馬と仲が良かった

幕末期、江戸に出た宗光は土佐藩の龍馬や長州藩の小五郎などと交流をもちました。とくに龍馬とは仲が良く、海援隊にも加わるなど終始ともに行動していたようです。
宗光は龍馬から才能を認められ、「刀が2本なくても食べていけるのは俺と陸奥だけだ」と言われるほどだったのだとか。宗光も龍馬を絶賛しており、「龍馬の右に出るものはいない。自由自在な人物で大空を翔る奔馬だ」といった言葉を残しています。
天満屋事件を起こしたのも、龍馬との友情が厚かったからかもしれません。

妻は「鹿鳴館の華」と呼ばれる

陸奥亮子
鹿鳴館の華と呼ばれた、後妻である亮子。

明治5年(1872)前妻・蓮子夫人を亡くした宗光は、その翌年に後妻となる亮子と結婚しています。亮子は東京新橋で小鈴(小兼)という名前で芸者をしており、このときから新橋で1~2を争う美貌の持ち主だったといいます。身持ちが固く男嫌いの評判もありましたが、17歳のときに客だった宗光と結婚、その翌年に長女・清子を出産しました。
社交界入りした亮子は「鹿鳴館の華」と呼ばれ、宗光とともに渡米した際は、その話術や美貌から「ワシントン社交界の華」や「駐米日本公使館の華」と称賛されたそうです。

関連記事:【近代女性の歩み】鹿鳴館の華「日本外交の父」陸奥宗光の妻・陸奥亮子

『蹇々録』を記した

宗光は外交記録として『蹇々録』(けんけんろく)を発刊しています。これは晩年の明治25年(1892)以降に執筆されたものですが、外務省の機密が明らかにされているため長らく非公開とされ、昭和4年(1929)にようやく公開されました。
この本には宗光の外交の経験や苦労、感想などが記されており、その内容はかなり赤裸々なものになっています。たとえば日清戦争の動機については、実際は国益のためだったと断言しています。まさに外交官だった宗光だからこそ書けた内容といえるでしょう。この本は明治外交史を知るうえでの第一級史料とされています。

美男子としても知られる宗光

陸奥宗光
美男子としても知られる宗光です。

仕事ができて切れ者だった宗光は、カミソリ大臣と呼ばれその手腕を遺憾なく発揮しました。日本の外交史上、重要な役割を果たした人物といえるでしょう。また、宗光は美男子としても知られています。「鹿鳴館の華」と呼ばれた亮子夫人とともに当時の写真が残されているため、その容貌は現在でも確認できます。
晩年の宗光は療養生活を送り、最後は肺結核で亡くなりました。外務省には彼の功績を称え銅像が建てられています。

 

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