織田家臣団とは、文字通り織田信長を支えた家臣団のことです。いち戦国大名から天下統一目前にまで至った織田信長には、頼れる家臣団がついていて、豊臣秀吉や明智光秀などおなじみの武将から、当時は最も強かった柴田勝家、その勝家の家臣団であり、大河ドラマ「利家とまつ」の主人公、前田利家や、利家とともに「府中三人衆」と呼ばれた佐々成政、佐久間盛政などがおりました。今回はその強さの理由を、主な家臣団の面々から探っていきたいと思います。
徹底的に実力主義の織田家臣団
信長の家臣団は、大まかに2つに分類されます。代々織田に仕えてきた譜代の家臣と、信長によって取り立てられた新参者の家臣です。
信長は能力を重視しており、身分が低くても有能なら取り立てました。その例が、羽柴(豊富)秀吉や明智光秀です。また有能なら、松永久秀のように何度反抗されても許しています。逆に、働かなければ追放するということもありました。後で紹介する佐久間信盛などは、ずっと仕えてきたにもかかわらず「働いてない!」と追放されてしまいます。
身分に関係なく、能力ある人物が自分のためにそれを発揮することを求める。信長の合理的な考え方は今でこそ当たり前ですが、世襲を重んじる当時は斬新なものでした。
織田家臣団でまず名前が挙がるのは、豊臣秀吉でしょう。低い身分の出身で、はじめは小者として仕え、順調に出世していきますが、その理由は秀吉の調略力でした。
それまで武将としての評価の対象は武功だけでしたが、秀吉は額に傷がひとつあるくらいだったと言うくらい、武勇があると言う訳ではありません。代わりに三木城や鳥取城の攻略や、墨俣一夜城の建築など、調略による貢献度によって出世していく、当時としては新しいタイプの武将でした。信長は秀吉のそんな才能を見抜いたのです。
信長の後継者を決める清洲会議ではイニシアチブを取れたのは、彼の話術と調略力あってこそと言えるでしょう。そして柴田勝家を倒し、着々と天下人への階段を上っていくのです。
先日、本能寺の変直後に、室町幕府再興を目指していたことを示す密書の原本が発見された明智光秀も、浪人という身分から丹波・畿内方面の司令官にまでなっています。越前の朝倉義景に仕えていたとき、流寓中だった足利義昭を信長に引き合わせたのがきっかけで、家臣の列に加わったとされます。
滝川一益もまた、忍者出身と言われながら多くの戦いで功績を挙げ、関東方面を任されました。その一方で、佐久間信盛は信長が幼少時から仕えた古参の家臣でした。しかし、石山本願寺攻めの長期化などを咎められ、息子共々高野山へ追放されてしまいます。
古参の勝家 VS 新参者の秀吉
しかし、いわゆる新参者の優遇を、古参が面白く思わないのは今も変わりません。特に古参筆頭の柴田勝家と秀吉は犬猿の仲だったと言われています。
当時、信長の家臣の中でも最も力を持っていたのは柴田勝家でした。実は信長に最初から仕えていたわけではなく、むしろ敵対していたのですが、その能力によって筆頭家老にまで出世しました。しかし清洲会議後、秀吉に主導権を握られたまま、賤ヶ岳の戦いで破れ、自害にいたるのです。
勝家には信長が与力としてつけた武将たちが従っていましたが、そのうちの一人が前田利家です。
利家は、勝家の与力として北陸方面の平定に参加します。信長の死後、そのまま勝家方に付きますが、親友でもある秀吉との関係もあってか、賤ヶ岳の戦いの際には突如撤退・降伏し、反対に勝家の本拠地・北ノ庄城攻めに加わりました。
勝家の与力の中でも、最も忠実で勇敢だったのが甥の佐久間盛政です。「鬼玄蕃」の異名を持つほどの猛将で、賤ヶ岳の戦いでも秀吉軍相手に緒戦の勝利を飾っています。しかし、落ち延びる途中で捕らえられ、秀吉の仕官の誘いを断ったため、処刑されてしまいます。
本能寺の変後、中国から戻ってきた秀吉に討たれた明智光秀はもちろんのこと、信長が亡くなった後の家臣団は、秀吉に従うかそうでないかで末路が決まりました。
秀吉に助けられながらも、失政により失脚する佐々成政
利家らと共に勝家の与力「府中三人衆」と呼ばれた佐々成政は、尾張の土豪から馬廻となり、その中でもエリートである黒母衣衆に抜擢されるほどの出世を果たしました。若い頃は信長に対してすら不遜な態度を取るほどの無骨者で、軍議の席では勝家とも揉めていたようです。
越中国(富山県)を平定し、越中半国を任された成政は、度重なる河川の氾濫に悩まされていた領民のため、大規模な堤防工事を行い、わずか数年で水害を無くし、領民に慕われたと言います。この防堤は「佐々堤」と名付けられ、現在もその遺構が遺っています。
しかし、武功の方では、主に上杉氏との戦いによって本能寺の変の際にも賤ヶ岳の戦いにも参戦できずじまいでした。勝家の死後は剃髪・降伏しますが、小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄の連合軍側につき、再び秀吉と敵対します。信雄が秀吉に降伏し、秀吉と家康が和議になると、成政は家康を説得するため、厳冬の飛騨山脈・立山山系のを自ら超えて浜松に入るという強硬手段に出ます。これは「さらさら越え」と言われ、家康側の資料にも記載された事実です。現在の登山家でも困難な山行をやってのけた成政の思いは、相当なものだったと言えます。
しかし、そんな思いも虚しく説得に失敗。最後は秀吉に降伏、御伽衆となり、九州征伐で功績を挙げて肥後国(熊本県)を与えられました。豊臣政権下での人材不足のためとも言われていますが、秀吉も成政の能力を買っていたのでしょう。
成政は太閤検地を行いますが、国人の反発を受け、一揆の原因を作ってしまいます。自分だけでは収めることができず、小早川隆景、立花宗茂、黒田官兵衛らなど付近の武将たちに出陣を命じ、ようやく一揆を収めることができました。敵将だった者に寛大な処置をし、国を任せたにも関わらず、一揆を起こさせ、単独で収めることができなかった成政を、秀吉も処罰せざるを得なくなり、切腹を命じるのです。
織田家臣団の末路は様々です。秀吉と対立し敗れた者、味方した者。そして、佐々成政のように、命を助けられながらも失政により命を落とした者。能力主義の信長政権の中でも、武功より智略で攻めた秀吉が抜きん出ていたのかもしれません。
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