「真田丸」で大絶賛された犬伏の別れ。真田父子が敵味方に分かれるという辛いストーリーでしたが、そこで存在感を増したのが真田信幸でした。大泉洋さんの演技は素晴らしかったですね。ドラマやゲームだと弟の幸村こと信繁がクローズアップされがちですが、実は兄・信幸も弟に劣らない人材だったんですよ。今回はそんな信幸に焦点を当てていきましょう!
5分でわかる真田信幸の生涯
永禄9(1566)年、真田昌幸の長男として信幸は生まれました。幼少時は主家・武田家の人質として過ごしています。
武田が織田に滅ぼされると、父のいる上田へ戻りました。
旧武田領を巡る北条・徳川・上杉の争い「天正壬午の乱」が起きると、父と共に真田の生き残りと領土拡充を図ります。上杉景勝が領土を広げようと信濃へ出てきたところ、信幸は兵を率いて撹乱するという功を挙げています。
しかし父が徳川方に味方すると、今度は父と共に北条に奪われた沼田城を奪還。
この時わずか17歳の信幸も兵を率いて出撃し、北条の城を落としました。
ところが、父は沼田領を巡って徳川とトラブルになり、今度は上杉景勝を主とします。
そこで、徳川家康との直接対決となる第一次上田合戦が起こりました。昌幸の智謀により、真田は徳川に煮え湯を飲ませることになります。この時も信幸は徳川の主力をおびきよせ、罠に引き込む重要な役割を担いました。
豊臣秀吉の天下取りと共に、真田は豊臣に臣従することになります。しかし秀吉の命で真田は徳川の与力大名とされました。この時、信幸は徳川方重臣本多忠勝の娘・小松姫(稲)との縁談が成立しています。
【さすが本多忠勝の娘!】信幸と理想の夫婦、武士の妻の鑑だった小松姫
ところが慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起こると、真田家は重大な決断を迫られました。
そして、昌幸・信繁は豊臣方に、信幸は徳川方に付くこととなったのです。これが「犬伏の別れ」ですね。
徳川秀忠に従った信幸は、早くも第二次上田合戦で父・弟と対峙します。しかしこの時は弟が兵を引き、兄弟対決は免れました。関ヶ原本戦で西軍が負けたため、本来ならば死罪となる昌幸と信繁でしたが、信幸の必死の助命嘆願により九度山へ配流となります。
改名し、父と決別。その後…
信幸が信之に改名したのは、この関ヶ原後のことでした。父と弟の助命を願った時、もう父とは決別するという意味を込めて父の「幸」の字を「之」に変えたのです。
徳川方で生きていくという信幸の覚悟がはっきりと表れた瞬間でした。
昌幸たちが九度山にいる間も、信幸は何かと援助を続けたそうです。
戦後、上田藩主となった信幸。大坂の陣には病気で出陣できず、代わりに息子たちを送りました。その後、松代藩へ移封され、内政に尽力します。しかし晩年にはお家騒動が持ち上がり、90歳を超えて再度藩政を執り、93歳で亡くなりました。
弟・信繁との評価の違い
信繁と言えば戦の申し子のイメージがあり、信幸は地味な印象がありますが、彼の最大の功績は松代藩を末代まで存続させた名君であったことです。また、移封前の上田でも領民第一の政治を行いました。倹約家でもあったそうです。
若かりし頃は、父と共に戦場でも多くの功績を挙げています。
信幸は10代後半から300騎以上の兵を任されていました。天正壬午の乱の際、北条方5千の兵が守る城をわずか800騎で落としていますし、小田原征伐の際には上杉景勝・前田利家など錚々たる面々と北条の松井田城攻めに参加したりしています。武将としての評価も高かったんですよ。
戦国の世を知り、君主としても有能だった信幸は多くの大名に慕われました。
家康の十男で紀州徳川家の頼宣は、信幸を招いては話を聞いたり、子の具足親になってもらったりしたそうです。人間的に本当に「できた」お方だったのでしょうね。
(xiao)
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