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真田信繁(幸村)の名前の由来を伝える寺 は「川中島」にあり!【哲舟の歴史よもやまルポ その17】

武田信玄と上杉謙信が激突した第4次・川中島の戦い(1561年)。その中心地となったのは、現在の長野県長野市にある八幡原(はちまんぱら)史跡公園だ。伝説に基づいて、両雄一騎打ちの銅像が建つこの場所こそは、信玄が合戦当日に本陣を置いた場所といわれている。

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八幡原から、ほぼ南へ1キロほど歩き、千曲川を渡ると松代(まつしろ)町に入る。その川の手前を西へ折れた場所にひっそりと建つのが典厩寺(てんきゅうじ)だ。

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典厩とは武田信玄の弟、武田信繁(のぶしげ)の通名で、この寺は文字通り信繁の菩提を弔う寺である。典厩こと信繁は文武両道の名将として知られたが、冒頭の川中島の戦いで討死し、この寺に葬られた。

当時は鶴巣寺(かくそうじ)という寺だったが、合戦から約90年が経った承応3年(1654)、松代藩主としてこの地を治めていた真田信之(信幸)が、武田信繁や武田・上杉両軍の戦死者を弔うため典厩寺と改めている。

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この寺に入ると、まず目にとまるのが合戦の両軍戦死者を供養する閻魔堂(えんまどう)だ。堂内にある閻魔像は日本一大きいといわれ、高さ6mもあって迫力十分。

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境内には、信繁の首を洗ったという「首清め井戸」や、合戦の死者を供養する甲越弔魂碑のほか、信繁の墓碑がある。そして、その隣には真田信繁(幸村)のものと伝わる供養塔も建つ(左の小さなものが真田信繁の供養塔)。ようするに、ここには武田信繁と真田信繁という、「2人の信繁」が祀られているのだ。

典厩寺への改装時に、この墓碑を建てた人物こそ信繁の兄・真田信之(信幸)といわれている。寺伝によれば、信之は大坂の陣で戦死した信繁を供養するため、ここに墓碑を建てたのだそうだ。

あくまで一説ながら、信繁の首級は故郷・信濃へ届けられ、いずこかへ埋葬されたという。ひょっとしたら、この下に信繁の首級ではないにしろ遺品が埋まっているのかもしれない。

「我が弟は、武田信玄公の弟と同じ『信繁』を名乗っていたが、高野山へ蟄居させられた際に『幸村』に改めたと聞いている」と、真田信之が晩年に家臣に証言したという史料(滋野通記)がある。

真田昌幸は信玄に仕えていたとき、自分の次男(幼名は弁丸、源二郎)に「信繁」という名前を賜ったのかもしれない。信玄としても有能な家臣の息子に信繁の名を与えることで、死んだ弟を甦らせるような思いがあったのだろう。ちなみに弁丸が生まれたとき、武田信繁は死んでいるため、両者に面識はない。

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境内には川中島合戦記念館も建っている。内部には信玄・信繁に由来する肖像や武具、文書などの貴重な史料が60点あまりも収蔵・展示され、武田家から真田家へと受け継がれた信濃の歴史の流れが垣間見られる。

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山本勘助の肖像、武田氏の歴史が記された『甲陽軍艦』なども置かれている。200円という良心的な入館料ながら侮れぬミニ資料館だ。

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真田信繁と、その名の由来となった武田典厩信繁を供養する寺は、川中島古戦場と比べて訪れる観光客も少なく、とてもひっそりとして閑静な雰囲気がある。上田や松代見物の折には足を延ばして参拝に訪れてみてはいかがだろう。

(写真はすべて典厩寺の許可を得て撮影しています)

典厩寺
長野市 篠ノ井杵渕 1000
8:30~17:00(無休)
拝観200円

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