隋に遣わされた使者だから遣隋使。王朝が唐に代わると遣唐使。寛平6(894)年に菅原道真の進言により停止されるまで、およそ300年間続いた日本と中国王朝との公式交流です。
歴史の授業ではまず覚えさせられる言葉ですが、実際に大陸に遣わされた彼らは何をしたのでしょう? その一端を調べてみました。
最先端の知識と技術を学ぶ
遣隋使・遣唐使の全体を通して主要目的だったのが、当時最先端だった中国王朝の知識や技術を学び持ち帰ることでした。政治や学問はもちろん、医術、占星術、工芸、音楽に絵画など、対象とする分野は多岐にわたったようです。
『旧唐書』によると日本の使節は唐の皇帝から下賜された財宝を持って市井に出て、ことごとくを書物と交換した、と記されているそうです。
国際社会における地位を確保する
朝鮮半島にあった新羅との関係が悪化すると、新羅に対する優位性の保証を中国王朝に求めたり、東アジアの国際情勢を知ることも目的とされたようです。
『隋書』によると、日本の使者が持参した国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と書かれており受け取った隋の皇帝・煬帝が激怒したそうです。この文言は日本の天皇を隋の皇帝と同列にすることによって、隋に従っている新羅への優位性を得ようとした、とも考えられています。
また、『続日本記』には唐での朝賀に際し、席次の順位について日本の遣唐使が新羅の使者と争ったことが記されています。
いつの世も留学に語学とお金は大事?! すぐ帰るはめになった最澄
遣隋使・遣唐使の中には長期滞在しながら様々なことを学ぶ人もいました。今で言う長期留学でしょうか。
遣唐使は、後半では20年周期で派遣されました。そのため20年後にやって来た船に乗って帰国するというのが定例化していたようですが、わずか2年で帰国した人も。その中には最澄もいました。
最澄は漢語ができず、弟子による通訳を必要としました。そのため現地の学校に入学できず、学問は思うように進まない・・・当時は唐も情勢が悪く支援金が少なかったことから、その時の責任者である橘逸勢の判断で、予定よりずっと短い期間で帰国することになったそうです。
帰国後は比叡山延暦寺を建てて、最澄は天台宗の開祖となりました。
同様に空海も唐から帰国し、真言宗の開祖となっています。
ちなみに、遣唐使として有名な阿倍仲麻呂は16歳で留学生として唐に渡り、35年後にやっと帰国することになったものの、日本への船が遭難し、結局帰国は叶いませんでした・・・。
仲麻呂が唐で詠んだ歌は有名です。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
唐で見上げた月に日本を思う郷愁の念が伝わってきますね。
調べてみると意外な歴史事情や、現代にも通じそうな出来事が出てきました。
国際交流は自国と他国の利害がぶつかる瞬間。東アジア各国の当時の事情も踏まえながら改めて遣隋使・遣唐使を見てみると、また面白い一面に気づけそうです。
(Sati)
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