【あの剣豪の流派は?】幕末江戸三大道場の著名な門下生たち

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【あの剣豪の流派は?】幕末江戸三大道場の著名な門下生たち

幕末の志士たちの中には多くの剣の達人がいました。たいていの場合、彼らは道場で剣を学んでいたわけですが、道場にも様々な流派があったのです。あの有名な剣豪たちはいったい何流の使い手だったのか、当時もてはやされた幕末江戸三大道場を中心に見ていきましょう。

幕末江戸三大道場と著名な門下生

「練兵館の創始者・斎藤弥九郎」
「練兵館の創始者・斎藤弥九郎」

幕末に特に有名となった三大道場は、士学館(鏡新明智流)・玄武館(北辰一刀流)・練兵館(神道無念流)です。それぞれに特徴があり、当時の道場主の名を取って、士学館は「位の桃井」、玄武館は「技の千葉」、練兵館は「力の斎藤」と称されました。

竹刀の打ち込み稽古を主とした正統派の士学館は、4代目の桃井直正の時に全盛を迎え、直正自身も徳川慶喜の警護役になるほどでした。後、鏡新明智流は初期の警視庁剣道での主流となり、現在も武術の形が残されています。
士学館では武市半平太岡田以蔵が学んでいます。武市はここで塾頭となり、門下生たちを束ねました。

武市半平太が獄中において書いた自画像。 (京都大学付属図書館所蔵品)
武市半平太が獄中において書いた自画像。
(京都大学付属図書館所蔵品)

玄武館は学者の町である神田於玉ヶ池にあったため、門下生が学問に触れることが多く、明治維新に影響を与える人物が輩出されました。「技の千葉」の異称の通り、古い因習にとらわれず合理的に技術を追求し、武士以外の町人や商人にも門戸を開きました。
門下生の顔ぶれは豪華で、清河八郎山岡鉄舟藤堂平助山南敬助などがいます。坂本龍馬は分道場の桶町千葉で学びました。

学問も重視し多くの志士を生んだ練兵館は、長州の志士を門下生に多く抱えていました。桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文などです。「真を打つ」渾身の一撃を一本としたため、軽い打ち合いは厳禁でした。防具も頑丈に作られていたそうですよ。

新選組のメンバーはどんな流派?

「新選組局長・近藤勇」
「近藤勇は天然理心流の4代目宗家」

前述の通り、新選組では藤堂平助が北辰一刀流を学んでいます。また、永倉新八は玄武館とは別の道場で神道無念流を学んでいました。他のメンバーは、近藤勇の試衛館で土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが天然理心流を学んでいます。後に藤堂や永倉も加わりました。

日野市にある天然理心流道場跡
日野市にある天然理心流道場跡

天然理心流は江戸三大道場よりも軽く見られており、農民も多く学んだことから「田舎剣法」と馬鹿にされることもありました。しかし、新選組の活躍により一気に注目を集めたのです。剣術、居合、柔術、棒術など総合的に武術を学ぶことで、より実戦向きだったのですね。

幕末四大人斬りの流派は?

幕末には、人々に恐れられた「幕末四大人斬り」がいます。前述のように、岡田以蔵は武市半平太と共に士学館に入門し鏡新明智流を学んでいます。

他、「人斬り彦斎」として恐れられた熊本藩の河上彦斎は、はっきりとした流派は不明ですが居合の達人だったため、片山伯耆流を学んだのではと言われています。

「女性のような風貌だったという河上彦斎」
「るろうに剣心の主人公・緋村剣心のモデルといわれる河上彦斎」

薩摩藩の田中新兵衛の流派も不明ですが、薩摩の城下で育っていることから、薩摩で盛んだった示現流の分派と推測されています。同じく中村半次郎も自己流ではあるが示現流と関連があるのではと言われていますね。

ちなみに、示現流とは、先手必勝を旨とし最初の一撃にすべてをかける流派です。実戦性に富み、多くの薩摩藩士がたしなみました。

名だたる幕末志士はみな何らかの剣術を修めていたんですね。
しかし、実際に人を斬りまくった新選組や四大人斬りの場合は、型がどうこうと言うよりも、とにかく実戦で有効な戦い方を身に着けていたようです。前線で戦うには、型について語っている場合ではなかったのでしょうね。

(xiao)

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