【忠誠と愚直】作戦は失敗続き…それでも日本人が心揺さぶられる会津魂

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【忠誠と愚直】作戦は失敗続き…それでも日本人が心揺さぶられる会津魂

かつての陸奥国の南端に位置する現在の福島県は、東北の玄関口としての地政的理由から江戸を守る要所とされ、親藩や譜代大名が多く配置されていました。その中でも各藩の代表格で最大の規模を誇ったのが会津藩です。

戦略的要地として重要視された会津

会津は、東の奥羽山脈と西の越後山脈に囲まれた盆地で、太平洋側や日本海側、関東にもにらみを利かせることのできる戦略的要地とされていました。豊臣政権の時代には蒲生氏郷、続いて上杉景勝といった有力大名が統治しますが、これは関東の徳川家康や東北の伊達政宗、最上義光への抑えでした。

江戸幕府もまた会津を重視。3代将軍・家光は異母弟で重要幕閣の1人だった保科正之に、譜代大名としては破格の23万石を与えて会津藩に封じますが、これも東北の外様大名を監視させる狙いがあったことは言うまでもありません。
幕末までに会津藩の実質石高である「内高」は40万石を超え、東北では仙台伊達家(62万石)に次ぐ規模の大藩となったのです。

保科正之
保科正之

大老として4代将軍・家綱を補佐し、領国にあっては「名君」と慕われた正之は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」で始まる有名な「会津家訓十五箇条」を残し、子孫と家臣に幕府への忠誠を求め、幕府も松平姓を許すなど会津藩を厚遇しました。

会津戦争、本当は失敗の連続だった?

会津藩が歴史の表舞台で登場するのは、風雲急を告げる文久2(1862)年のこと。
14代将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚儀が執り行われたこの年、第9代会津藩主の松平容保に京都守護職の大命が下ります。討幕派と激しく対立する最前線に置かれた結果、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争では新政府軍の報復対象に。抵抗しないという意思表示(恭順)をしたにもかかわらず、女性や子どもを含む約3千人が犠牲となる悲惨な運命をたどったことは広く知られています。

降伏後に撮影された、損傷した会津若松城
降伏後に撮影された、損傷した会津若松城

さて、その会津での戦いですが、ほとんどの歴史小説や時代劇では、飯盛山で自刃した白虎隊士中二番隊の隊士20人(1人生還)の悲話をはじめ会津藩士たちがいかにも奮闘したように美化されています。

ところが、実際の会津藩の戦いはというと、失敗の連続だったのです。
新政府軍の進攻ルートを読み誤って天然の要害である母成峠をあっさり突破され、城下への進撃を食い止めようと試みた十六橋の破壊にも失敗。
起死回生のため猛将・佐川官兵衛に千人の兵を預けて出撃させますが、佐川が出陣前夜に泥酔したため、夜明けに実行するはずだった作戦開始が遅れ、これも敗北しました。
しかも、近代戦術に精通する旧幕臣の大鳥圭介や新選組の土方歳三が進言する作戦も、藩の上層部はことごとく退け、2人は会津を去っていったのです。

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会津戦争を描いた図
会津戦争を描いた図

歴史書などで会津藩の敗北は「兵器の性能の差」と説明されることも多いですが、戊辰戦争全体を見ると戦死者数は旧幕府軍の8625人に対し、新政府軍も4947人(諸説あり)と多大な犠牲を強いられました。
河井継之助が指揮する長岡藩兵が善戦したことを考えると、互角に戦える可能性もあったわけで、当時の会津藩に見通しの甘さや保守的な考えに引きずられた組織のもろさがあったことは否定できません。
最も京都守護職の負担が大きかったため長岡藩のように、最新兵器を購入したくても、できなかったという事情もあります。

ただ、もし会津藩が戦わずに降伏したり、旧幕府側を見限ってあざとく生き残ろうとしていたら、後の時代の評価はまったく変わったものになったでしょう。なぜなら、幕府や朝廷に最後まで忠誠を尽くし、圧倒的に不利な状況でも愚直に戦った〝会津士魂〟にこそ私たち日本人は心を揺さぶられるのですから。

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