【 酒乱なだけじゃありません 】武断派・福島正則にまつわる意外な逸話

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【 酒乱なだけじゃありません 】武断派・福島正則にまつわる意外な逸話

筋金入りの酒乱なので、酒のエピソードに事欠かない福島正則。粗暴な面が取り上げられがちで、同じく秀吉子飼いの加藤清正より多少劣ったように評価されることも。確かに否定できない部分もあるのですが・・・しかし!正則にもいい部分はあったのです。そんな正則再評価のために、今回は彼にまつわる良い逸話をご紹介します。

誰も弁護しなくても俺がする!織田秀信の助命を嘆願

関ヶ原の戦いの前哨戦のひとつ・岐阜城の戦いでは、正則は東軍の一員として攻め込みました。相手は織田秀信、あの信長の孫です。

「織田秀信(清洲会議で登場した三法師)」

秀信は善戦しましたが、やがて正則や池田輝政率いる東軍が優勢となり、秀信は降伏、岐阜城は開城となります。となれば敵将として秀信は死罪となるはずでした。しかし、正則はひとり彼の助命を嘆願したといわれています。家中に秀信家臣の縁者が多くおり、加えて秀吉の主君だった信長の孫である秀信は、正則にとっては主筋でした。庇うのが当然、と正則は思ったのでしょう。自らの武功と引き換えでもいい、と言ったとも伝わっています。
他の将からはそんな声は上がらなかったのに、正則だけがある意味義を貫いたとも言えますね。

また、「名将言行録」によると、降伏した秀信が少ない供を連れて高野山へ向かうところを、生け捕りしてしまおうという者がいたそうです。しかし正則は「武士が約束を違えるのは恥だ。和睦が成ったところを陥れるようでは、武士とは言えぬ」と制止したのです。

誰もが見て見ぬふりの中、秀信の助命に声を上げた正則。カッコいいと思いませんか?

八丈島の宇喜多秀家へ贈り物!(酒)

容姿端麗だったと伝わる宇喜多秀家

関ヶ原の戦いで西軍についた宇喜多秀家。戦後は八丈島へ流刑となり、そこで約50年の流刑生活の後に亡くなりました。彼との間にも、こんな逸話があります。

正則は江戸に滞在中、領地の広島の酒を船で運ばせていました。
ある時、酒を積んだその船が八丈島へ漂着します。すると、海辺で老人が嬉しそうに手を振っていました。

老人は「その旗印は福島殿の船だろう。それを見て懐かしくなって手を振ってしまったのだ」と言います。船員がよくよく話を聞いてみると、その老人が宇喜多秀家だということがわかりました。
「その酒を一樽いただけないだろうか」という秀家に、船員は樽を置いて帰ります。

後に正則にそれを伝えると、涙ぐみながら「よくやった」とほめたたえたそうです。そして、「今後も宇喜多殿に品物をお届けするように」と命じたといいます。

涙もろく人情に篤い男、これぞ福島正則では!?

他にも、正則については家臣思いの逸話が伝わっています。
カッとしやすい単純な性格だったのでしょうが、兄貴肌の豪快な人物だったのでしょうね。

(xiao)

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