「歴史上の人物の偉業、あの時まだ○歳だった!(若年編)」に対抗して、今回は高齢になってから活躍した人物をご紹介します。高齢化に向かって生きる私たちに元気をくれると思いますよ!
6回目のトライで高僧自ら日本上陸!鑑真
鑑真は中国・唐の高僧でしたが、日本で戒律を授けられる位の高い僧を求めていた聖武天皇の招きに応じて日本渡航を決意しました。誰も志願者がいなかったので、お師匠様自ら動いたというわけです。この時鑑真55歳、743年のことでした。
ところが、嵐や妨害のせいで渡航は困難を極め、6回目にしてようやく成功します。最初の渡航から10年経ち65歳になった鑑真は、両目を失明していました。
しかし彼は朝廷に歓待され、東大寺で日本の仏教戒律の整備に尽力します。奈良の唐招提寺は彼が開いた由緒あるお寺ですね。
現代だって退職するような年だというのに、命をかけて日本までやって来た鑑真の熱意は並々ならぬものだったのでしょう。
70歳を超えてあの武神・立花宗茂が島原に再来!
豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂、天下無双」と称された立花宗茂は、関ヶ原の戦いの後に改易されてしまいます。しかし、彼の能力と人柄を買っていた人たちから推挙を受けて、江戸幕府に仕えることとなりました。
1637年、宗茂が徳川家光に仕えていた時、天草四郎を中心とした島原の乱が起きます。幕府は鎮圧に苦戦し、老中・松平信綱をついに派遣することにしました。その時、補佐として白羽の矢が立ったのが、当時70歳を迎えていた宗茂だったのです。
出陣した宗茂は、夜襲を予期したり策を授けたりするなど、戦乱を知らない諸将に頼りにされました。しかも有馬城には一番乗りし、「武神再来」と称賛されたのです。
隠居後の人生で日本地図を作った伊能忠敬
日本全土を測量して日本地図を完成させた伊能忠敬ですが、実は測量を学び始めたのは1795年、50歳の時でした。それまでは名主をしていましたが、隠居してやりたいことをやろうと江戸に出たのです。
自分より年下の師に学んだ忠敬は、いよいよ日本全土測量をスタートさせます。1800年から1816年まで測量を続け、日本地図の作成途上の1818年に73歳で亡くなります。その2年後に「大日本沿海與地全図」が完成しました。
こんな風に、第二の人生に情熱を注げたならどんなに素晴らしい人生でしょう!
90間近で現役絵師だった!葛飾北斎
浮世絵師の葛飾北斎は、1849年に89歳で亡くなるまでに3万点余りの作品を残しました。「富嶽三十六景」などは彼の代表作で、ゴッホなど海外の画家にも影響を与えたことはご存知かと思います。
しかし、彼は最晩年の1848年から翌年にかけてまで絵を描き続けていたのです。長野県小布施町の岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」がそれで、21畳もの大きな作品は、とても90歳近い人が描いたとは思えませんよね。
90歳超えても国会議員!世界記録を持つ「議会政治の父」尾崎行雄
新聞記者から政界入りし、伊藤博文相手に臆せず批判を展開した「政界の麒麟児」尾崎行雄は、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員の日本記録を持っています。1890年から63年間で25回連続当選というのは世界記録なのです。
95歳で亡くなった彼は、なんと94歳まで国会議員を務めました。彼のお膝元では、選挙の時には彼の名前しか書いたことがないという人が多かったそうです。それだけの信頼を多くの人から長い間得ていたということですね。
今よりも平均寿命が短い中、ここまでのことを成し遂げるのは大変だったはずです。けれど、幾つになっても「やればできるんだ」ということを証明してくれますよね。
(xiao)
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