【采配次第】魚鱗、鶴翼…あの合戦も陣形が勝敗を分けた

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【采配次第】魚鱗、鶴翼…あの合戦も陣形が勝敗を分けた

戦国時代の戦ともなると、多数の兵が陣を組んで采配通りに動き、相手を撃破する・・・そんなイメージがありませんか?
実際、陣形が戦で用いられるようになったのは室町時代以降のことで、戦国時代に全盛を迎えました。
時には陣形ひとつで勝敗が決することもあり、同時に生死を決めることにもなりますから、陣形の選択はとても重要なことだったのですね。
そんな戦国時代の合戦における陣形を、エピソードとともにご紹介しましょう!

中国伝来の八陣図

「八陣図を考案したと言われる三国志の名軍師、諸葛亮」
「八陣図を考案したと言われる三国志の名軍師、諸葛亮」

日本で有名なのは、中国から伝わった八陣図です。8世紀頃には伝来していたそうですが、実は中国でも原型が固まっておらず、実態が明らかではありませんでした。

そのため、武田信玄に仕えた山本勘助が、この作り直しを提案します。
そして彼が考案したものが、「魚鱗・鶴翼・偃月・鋒矢・方円・長蛇・衝軛・雁行」の八陣でした。これを武田八陣形と言います。
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この中でも合戦で良く用いられたものが、魚鱗の陣と鶴翼の陣です。

【魚鱗の陣】

中心が前方に突き出すような形(△の形)で、戦端が狭いため、相手を一気に突き崩すような攻撃向けの布陣です。
一方、側面や後方からの攻撃には弱くなります。ただ、多くの兵が散らばらずに密集しているため消耗戦にも強いというメリットがあります。

【鶴翼の陣】

自軍を敵に対して左右Vの字型に広げた、最も基本的な陣形です。鶴が翼を広げたように見えるため、鶴翼の陣と呼ばれます。
敵軍が前進・突撃してくれば、左右の翼に当たる部分で包囲して攻撃を加えます。

陣形が勝敗を左右!三方ヶ原の戦い

「三方ヶ原での敗戦後に家康が描かせたと言われる【顰像】」
「三方ヶ原での敗戦後に家康が描かせたと言われる【顰像】」

武田信玄と徳川家康との間で行われた三方ヶ原の戦いは、陣形が勝敗を左右したと言われる合戦の筆頭です。
兵力は、武田軍2万7千~4万、徳川軍は1万1千~2万8千と推測されています。
家康は、三方ヶ原を通過する武田軍を見て、家臣の反対を押し切り出陣したと言われています。そして彼が取った陣形は、鶴翼の陣でした。一方、信玄は魚鱗の陣で迎え撃ちます。

ここで気になるのは、両軍の陣形が定石とはまるで反対であることですね。
本来ならば、多数の武田軍が鶴翼の陣で徳川軍を包囲しにかかり、徳川軍は少ない兵力を集中させて中央突破する形だと思います。

家康は、武田本隊がすでに去っており相手が少ないことを想定したのだとか、勝ち目が無いとわかっていたからこそ、自軍を多く見せるために鶴翼の陣を取ったのだとか、諸説あります。

信玄の方も、徳川軍が鶴翼の陣であるならば、薄い中央を叩くために魚鱗の陣を取ったのだとする説もあります。

数的不利にありながら、戦端は徳川方から開いてしまったようです。そのため、鶴翼の翼部分が攻撃を受けて総崩れとなり、元々が強兵で数も多い武田軍が徳川軍を圧倒しました。そして家康は敗走し、三方ヶ原の戦いは武田方の勝利に終わったのです。

しかし、この戦いに関しては詳細が残されておらず、陣形以外のことはほぼ不明なのです。

陣形機能不全!関ヶ原の戦い

「関ヶ原の戦いにおける布陣図」
「関ヶ原の戦いにおける布陣図」

関ヶ原の戦いでは、西軍が笹尾山などの高所を押さえたことで、鶴翼の陣のような形になりました。
東軍は低地に入ってこなければならないので不利だったのですが、ここでは東軍の調略が物を言います。

西軍の小早川秀秋や吉川広家などが内通したため山から動かず、結果として鶴翼の陣は功を奏しませんでした。そして西軍は敗れたのです。

いかがでしたか?
陣形を使うにしても、大将の意のままに動く兵がいないとダメだということですね。関ヶ原のように大名が集結して戦う場合は、ちょっと難しかったのでしょう。
他にも数々の陣形がありますので、合戦でどのように使われていたか調べてみたくなりました!

(xiao)

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