歴史研究家・乃至政彦氏がテーマにゆかりのある古典を紹介するシリーズ。第5回は、徳川家康が武田信玄に戦いを挑み、叩きのめされた「三方ヶ原合戦」を、吉川英治の小説『新書太閤記』や史料を元に検証します。なぜ家康は、ほぼ勝算のない合戦に挑んだのか。さらに恐怖のあまり、敗走中に脱糞してしまったとされる事件の真相にも迫ります。
家康、三方ヶ原の「大失態」
元亀3年(1572)12月22日、遠江国敷知郡で武田軍と徳川軍の遭遇戦が発生した。三方ヶ原合戦である。
この合戦には3つの印象的なシーンがある。家康が「大失態」を起こし、「醜態」を晒し、それを深く「反省」したというものである。今日はこの3つを吉川英治の『新書太閤記』(巻四)を紐解きながら検証してみよう。まずは家康の「大失態」である。
吉川による三方ヶ原合戦直前の描写がこちら。
大物見の小山田信茂が、信玄のそばへ駈けて行った。信茂の声はいつになく弾みあがっていたし、馬上のままなのであたりへもよく聞えた。
「お館、お館ッ。敵の一万を捕捉して、みなごろしにする機は、いまを措いてありません。ただ今、味方の抑えに向って攻めかかる陣容を物見してまいりましたところ、各隊一段備えに、鶴翼のかたちを展げ、一見、大兵と見えますが、二陣、三陣とも奥行はうすく、家康の中軍とても、たかの知れた小勢で守られているに過ぎません」
三方ヶ原合戦は「3万の魚鱗vs.8千の鶴翼」の構図で語られる。信憑性の高い『三河物語』も武田3万余の「魚鱗」と徳川8千の「鶴翼」が争ったと記している。この時代の文献によると、当時の魚鱗は密集陣形で、防御や一点突破に向いていた。鶴翼はV字型ではなく、八の字型に近い形で、自分より少ない敵を包囲するためのものだった。
しかし家康は寡兵であるにも関わらず、薄手の諸隊を分散させ、横隊の鶴翼を取らせた。対する武田軍は鉄壁の魚鱗陣形。家康の布陣は兵法のイロハから外れており、瞬時に突然の如く大敗を喫した。これが一つ目の「失態」である。
惨敗する徳川軍
鎧袖一触、家康は絶望的な敗北を喫する。だが家康もこんなことは最初から想定内のことだっただろう。『三河物語』によると、家康は勝敗を度外視し、「なんともあれ、わが屋敷の裏口の戸を踏み切って通らんとする者に、家の中から出るのを止める者があるか。負けるからと出るなと言うのか」と大喝し、家臣一同に「是非に及ばず」と言わせてから、合戦を仕掛けさせている。勝ち負けの是非を論じていないのだ。
家康は無力を言い訳に、武田軍が領土を蹂躙して進むのを座して見ることが我慢ならなかった。このため無謀とも言える正面対決を挑んで、敗れるべくして敗れたのではないだろうか。
徳川軍勝利の可能性はゼロだった?
大軍を相手にする時は撃退できそうな敵の一部を分断し、残りを諸隊が引きつけて孤立する少数を打ち砕く。これが兵法の初歩である。あるいは一点突破して、内側もしくは背後から突き崩す。これなら逆転が起こりやすい。しかし家康は寡兵で戦捷をもぎ取る定石を最初から捨てていた。
これは家康が未熟だったからかというと、そうとも言い切れない。信玄は「天下一の軍士」を用い、さらにその軍法と操兵は伝説視されるほど卓越していた。しかも率いる兵数は家康のほぼ4倍近く。そして老練の信玄は天下随一の名将である。奇策を弄したところで、びくともしないはずだ。家康がどの手を使っても勝率はほぼ0%だったと言っていい。
降参か逃亡か、あるいは敗北か
策を弄したところで下手をすれば逆手に取られ、こちらが殲滅させられる恐れがある。家康には、信玄に勝てる方法も実力もなかったが、逃亡や降伏という選択肢もなかった。義元存命時代に後戻りすることは、もうできない。今川からの独立は家康のみならず家臣一同も命がけだった。
ちなみに最新の研究によればこの時、援軍として織田信長自ら大軍を連れて三河へと進軍中であった事がわかっている。その数、なんと2万(『前橋酒井家旧蔵聞書』、『甲陽軍鑑』)。信長はもともと信玄と争う気などはなかったが、ここに平手と佐久間を援軍に送り、背後で決戦に備えてくれている。信玄との対決姿勢を明確にしてくれたのだ。これでは降参することはできない。しかも信玄は降将に厳しい。特に無能や不実な者は冷遇される。すべてを投げ捨ててあっさり床に手をつけば、末代までの不名誉を蒙ることになる。
また、もし逃亡して戦線を放棄した場合、信玄と信長のどちらが勝っても先に待っているのは地獄でしかない。そうなれば、徳川主従にまともな余生は過ごせまい。
すると最善の策は、負けを覚悟で戦う事だけだった。もちろん信長からも信玄からも家臣からもどこから見ても立派に戦い、なおかつ被害を最小限に抑えなければならない。ここで家康は決断をくだす。
「合戦をせずしてはおくまじき」
家康の神算
家康が鶴翼の陣で進軍した理由もここでわかる。敗北して総崩れとなった時、諸隊が味方に邪魔されずに逃げやすくするためである。もし密集して武田軍に当たれば、将士は踏ん張るほかになく、固まりすぎた部隊は前方にある者ほど逃げ遅れて被害が拡大するだろう。
そこで選ばれたのが、それぞれの背後を薄くする横隊の鶴翼の陣だった。これで生真面目な侍は死ぬ。だが、敗れて逃げる時、生き残らんとする侍にはとても都合がいい。戦う姿勢を明確にして大敗すれば、「大軍相手なら仕方がない」と世評も甘くなる。むしろ、「それでもよくぞ戦った」と褒め称えられるだろう。戦意満々に見えて、敗退が容易な横広がりの構えが最適だったのである。
家康は、自らも死ぬつもりと見せかけて、家臣一同を自主的に戦わせ、そして少なくない武士たちを死なせながら、死中に活を求めたのである。これで、死ぬ者も生き残る者も、汚名を受けることはない。生きるも死ぬもお前たちの気持ちに任せる、だから好きにしてくれ。家康はこんな気持ちだったのかもしれない。
合戦に負けて、運命に勝つ
武士の中にはしばしば負け戦と知りながら、多くの兵を死に向かわせる大将がいる。共に討ち死にする大将もあれば、生き残って彼らの名誉を語り継いだり、戦後に遺族を厚遇する例もある。筆者はここで、前者の典型に大谷吉継を、後者の典型には徳川家康をあげたい。主命と比して、武士の命は軽いとするのがかれらの思想だった。
敗北は当然の帰結であり、覚悟の上である。家康に後ろ暗い点は微塵もなかったのではないだろうか。
『三河物語』によると、家康は敗軍する味方を見ても「家康御動転なく御小姓衆を討たせじと思し召して(馬を)乗りわまし給ひて、まん丸になりて退かせ給ふ」とあり、味方の撤退を堂々と支援していて、恐怖の色を見せていない。敗れて浜松城へ入った後もくよくよしていない。「(家康は)何事も無く御城へ入らせられ成られ候」と淡々としていた。
作られた「醜態」
二つ目の印象的なシーンは「醜態」である。浜松城へ敗走した家康は、恐怖のあまり脱糞してしまったという。
これだけの実力差を見せつけられて、あと一歩でその首を獲られる極限状態まで追い詰められれば、形振り構わず、生理現象を催すこともあるだろう。ところが「醜態」の出典資料を見ると、12月の三方ヶ原ではなく、10月に武田軍と徳川軍の先遣隊同士が戦った一言坂の前哨戦の事とされている。
一言坂合戦での脱糞
遠江国の二俣城へと迫る武田軍に対応するため、家康は一言坂に本多忠勝を派兵。武田軍の先遣隊と交戦せしめた。小勢の忠勝は撤退を余儀なくされたが、それでも武田軍に大きな被害を加えて帰ってきたので、「家康に過たるものが二つあり、唐の頭(唐のかしら。ヤクの毛に飾られた兜)に本多平八」と称えられた。
家康の脱糞話があるのは、この時である。『三河後風土記』巻十三に、
「大久保治左衛門(忠隣)、大音揚げ、御馬の口付に向て、『其御馬の鞍壺を能く見よ。糞があるべきぞ。糞を垂て遊玉ひたる程に』と悪口す」
(大久保忠隣は、馬の口取りに大声で「その(家康さまの)御馬の鞍壺をよく見ろ。糞がついているぞ。糞を垂れ遊ばされるほどだったか」と悪口を言った)
とある。
この史料は徳川時代後期の成立と見られる。比較的新しくできた話なのだ。しかも家康は史実だと一言坂に出陣していないので、武田軍に敗れて脱糞する設定自体成り立たない。
ここで大久保忠隣は、家康が奮闘した忠勝に比べて臆病だ、不甲斐ないと揶揄しているのだが、後から家康は家臣一同の前で「忠隣の言うことには一理ある。だが、大将は遁げる時は懸命に遁げるべきなのだ。武勇のみでその器量を論じるものではない」と忠隣を批判している。忠隣は徳川時代初期に改易されたので、こういうヒールキャラに造形されやすかったのだ。
これがなぜか昭和になると舞台が一言坂合戦から三方ヶ原合戦に入れ替わってしまう。有名なのが山岡荘八の『徳川家康』と、これが原作の大河ドラマである。武田軍の怖さと徳川家康の人間臭さを印象付けるのに打って付けだったのだろう。これが作られた「醜態」の実相ではないだろうか。
ところで吉川英治は重要人物の成長物語を好む作家だった。特に『宮本武蔵』ではそれが顕著で、多くの創作を交えながら、泥臭く汗臭く、辛酸を舐めながら、一個の剣豪として、めきめき育つ武蔵の姿を描写している。だが、吉川はその作風に合うはずの家康脱糞話を記していない。吉川英治が三方ヶ原を描いた頃は、この逸話はまだそれほど有名ではなかったのだろう。
そもそも徳川時代初期の文献に同種の記録は見当たらない。家康が糞便を垂れたという俗話が事実なら、『三河物語』に生き生きと書き残されたはずである。
猿にもできる「反省」と「しかみ面」
徳川家康は、三方ヶ原で「大失態」をしたわけではなく、脱糞という「醜態」を晒したわけでもない。
では、最後にその「反省」に注目してみよう。浜松城に帰った家康は、急ぎ画工を呼び寄せた。そして軽挙を猛省して、敗退したばかりの自らの姿を画工に描かせた。有名な「しかみ像」である。以降、家康は身を慎んで慎重路線を通す事になったという。
肖像画の実像
しかしこの「しかみ像」の話も吉川の小説では採用されていない。なぜならこれもまた昭和になって初めて作られた創作話で、吉川が三方ヶ原を描いた時にはやはり有名ではなかったからである。
この肖像は狩野探幽(1602〜1674)が、17世紀初頭に描いた家康礼拝像である。だがそれが後になって長篠合戦時の姿を描いたものと解釈されていった。昭和11年になると今度は長篠ではなく、三方ヶ原合戦後の姿を描いたものとして語られはじめた。それにまた尾ひれが増し、家康が浜松城で戦後すぐに描かせたものへと話が変わり、今日のイメージにつながったのだという(原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」/『金鯱叢書』第43輯、2016年)。
振り返ってみれば、家康はこの合戦で「反省」すべきところはない。その後も本能寺の変で信長が討たれると、三河に帰って明智光秀と戦う決意を固めた。かと思えば公儀のためと称して武田遺領の制圧に乗り出した。
慎重になるどころか、いつまでも冒険を好む勝負師のままである。天下を取ったばかりの秀吉とも小牧・長久手で一大戦役を遂げた。
一度だけ心が揺らいだのは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦ではないだろうか。この時家康は西軍から「内府違いの条々」で弾劾され、豊臣政権により江戸に蟄居を命じられた。家康はここで、前田利長のように大人しく恭順するか、上杉景勝のように断固として不条理を認めない姿勢を貫くかを迫られた。
結果、家康は後者を選び、公儀を称する者たち相手に目にものを見せようと西上した。その後の事は周知の通りである。
虚構と古典と吉川英治
吉川英治は、歴史を俯瞰する作風の司馬遼太郎と違い、歴史を見下ろすのではなく、見上げる姿勢をどの作品にも通底させている。
設定や物語は歴史や原典とされるもの(あるいはそこから受けた自らの感情)に倣い、自らは豊かな表現力でもってその媒介者に徹する。これは、辞書を50回熱読したと伝えられるほどの語彙力と表現力で魅せる技巧派だからこそ出来る業であろう。
これは古典として強靭である。そこに描かれているのは、歴史的事実というよりも、吉川英治が感受した心象という一個の歴史だからである。
乃至政彦(ないし・まさひこ)
歴史研究家。単著に『上杉謙信の夢と野望』(ベストセラーズ、2017)、『戦国の陣形』(講談社現代新書、2016)、『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y、2013)、歴史作家・伊東潤との共著に『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社歴史新書y、2011)。監修に『別冊歴史REAL 図解!戦国の陣形』(洋泉社、2016)。テレビ出演『歴史秘話ヒストリア』『英雄たちの選択』など。
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