東京都心の中心地である皇居。ここが江戸城の跡地だったことはご存知だと思います。江戸城は戦国時代に太田道灌が築いた城であり、豊臣秀吉の命令で江戸に入った家康が居城として整備されました。
この家康による江戸の都市整備には、風水が取り入れられていると伝わっています。
風水は宮城守護の呪術とも言える考え方。具体例のひとつとしてあげられるのが、城の北東と南西、「鬼門」と「裏鬼門」と呼ばれる方角に聖地を置いて魔の侵入を防ぐことです。
この計画を進めるにあたって重要な役割を果たしたのが、徳川家康のブレーンとも言うべき側近・南光坊天海でした。
今回は、南光坊天海と、江戸城の鬼門と裏鬼門にある寺社をご紹介しましょう。
徳川家康のブレーン・南光坊天海
南光坊天海は天台宗の僧侶です。
織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ち後に武田信玄、蘆名盛氏などのところを転々とし、最終的に徳川家康に仕えました。豊臣秀吉による北条攻めの際、南光坊天海が浅草寺にあった徳川家康の陣幕にいたことが記録に残されています。
その後も天海は徳川家に仕え、幕府の朝廷政策や宗教政策に深く関わっていきました。3代将軍家光の時代に死去しますが、100歳を超える大往生だったようです。
鬼門と裏鬼門の抑え1:徳川家の菩提寺・寛永寺と増上寺
そんな天海は、江戸城の鬼門と裏鬼門に寺社を置いて災いから守ります。
邪気が入るとされる鬼門・北東の方角には寛永寺(上野)を置き、自ら住職を務めます。
寛永寺は東の比叡山を意味する「東叡山」という山号を持っており、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣っています。
さらに隣には上野東照宮を建立、そして浅草寺でも家康を東照大権現として祀るなど、鬼門鎮護を厚くしました。
また、邪気の通り道とされる反対側の南西、裏鬼門には増上寺を置いています。
増上寺には2代将軍・秀忠を葬っており、どちらの寺も徳川家の菩提寺としました。
鬼門と裏鬼門の抑え2:江戸の総鎮守・神田神社と日枝神社
さらに天海は、鬼門鎮護を厚くするために神田神社(神田明神)と日枝神社の位置を移します。
神田神社はもともと現在でいう東京都の大手町付近にあったのを湯島に、
日吉大社から分祀した日枝神社を永田町に移しています。
これら寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点に江戸城が位置していることから、天海による鬼門・裏鬼門封じの徹底ぶりがうかがえますね。
江戸の三大祭とされている神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけがあったそうですよ。
【江戸と東京の総鎮守】パワースポット神田明神と祭神・平将門の歴史
鬼門と裏鬼門の抑え3:江戸の外にも!日光東照宮と久能山東照宮
最後の抑えは江戸の外。現在の栃木県にある日光東照宮と、同じく静岡県にある久能山東照宮です。
どちらも祭神は東照大権現。神霊となった徳川家康です。
家康は死後はじめに久能山に埋葬され、後に日光の東照宮へ改葬されました。自らが最前線となって江戸を守ろうという現れだったのでしょうか。
ちなみに久能山東照宮は相殿に織田信長と豊臣秀吉も祀られています。
家康による江戸守護への情熱が感じられるようですね。
ただ、こうした風水の導入は後世に作られた伝説という説もあるのだとか。
真偽はどうなのか、また伝説だった場合、どのような思いを託されて作られた伝説なのか。調べてみると江戸と東京、そしてそこに住む人々の素顔に近づけそうです。
(Sati)
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