戦国時代は武将の活躍がクローズアップされることが多いですが、公家のなかにも負けず劣らずの活躍をした人がいるのをご存じでしょうか?
近衛家17代当主となった近衛前久(このえさきひさ)は、公家の立場でありながら天下統一事業に尽力した型破りな人物です。大河ドラマ『麒麟がくる』では、俳優の本郷奏多さんが演じることでも話題になっていますよね。彼の人生は一体どのようなものだったのでしょうか?
今回は、前久のうまれから要職就任までの経緯、朝廷からの追放と関白の解任、本能寺の変とその後、残された逸話などについてご紹介します。
若くして要職にのぼりつめた前久
五摂家(※詳細は後述)にうまれた前久は、若くして要職を歴任しました。その華々しい経歴を振り返ります。
5歳にして公卿となり、藤氏長者に
前久は、天文5年(1536)近衛稙家の長男として京都で誕生しました。元服時、第12代将軍・足利義晴から偏諱(へんき=名の一字を賜うこと)を受け晴嗣(はるつぐ)と改名。天文10年(1541)に従三位に叙せられ公卿となり、内大臣、右大臣に昇格します。その後、わずか18歳で関白・左大臣を務め、藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体を束ねる代表者のこと)に就任しました。また天文24年(1555)には従一位に昇叙し、前嗣(さきつぐ)と改名しています。
上杉謙信と盟約を結ぶ
当時の京は混乱しており、その状況に心を痛めた前久は、地方の戦国大名の助力を得ようとしました。永禄2年(1559)越後国の上杉謙信と盟約を結び、関白でありながら越後に下向。謙信の関東平定を助けようと上野・下総にも赴きます。前久と改名したのはこの頃で、花押も公家様式から武家様式に変更するなどの気概を見せました。公家らしからぬ行動力を見せた前久でしたが、武田氏や北条氏の台頭により謙信の関東平定が難しくなると、永禄5年(1562)に落胆して帰洛します。
朝廷からの追放と関白の解任
謙信と盟約を結んだ前久でしたが、のちに織田信長との関わりが大きくなっていきます。しかし、それ以前に立場を脅かされる出来事もあったようです。
将軍・足利義昭との対立
永禄8年(1565)三好三人衆による将軍・足利義輝の殺害「永禄の変」が起こります。彼らは罪に問われることを恐れ、義輝の従兄弟である前久を頼りました。前久は自分の姉(義輝の正室)を保護したことを評価し、彼らが擁立する足利義栄を次期将軍に決定します。
こうして義栄が第14代将軍に就任しましたが、信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆は信長に抗戦したものの敗れ、義栄も病死してしまいます。第15代将軍となった義昭は、義輝の死に前久が関与しているのではないかと疑い、先の関白・二条晴良も前久を追及しました。そのため、前久は朝廷から追放されたのです。
関白解任と信長包囲網への参加
京を追放された前久は、丹波国・赤井直正を頼って黒井城の下館に住み、次には本願寺の顕如を頼り摂津国の石山本願寺に移りました。このとき、前久は関白を解任されましたが、信長包囲網が動き始めると三好三人衆の依頼でこれに参加し、顕如を決起させるという働きをみせています。しかし、前久には信長への敵意はなく、彼の目的はあくまで将軍・義昭と関白・晴良の排除でした。そのため、義昭が京から追放され、晴良も疎んじられるようになると、前久は信長包囲網を離脱しています。
信長の要請に応える
天正3年(1575)信長の奏上によって帰洛した前久は、その後も信長との親交を深めていきました。信長に要請され大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、信長と本願寺の調停にも着手。これにより、顕如が石山本願寺を退去すると、長らく一向一揆に悩まされてきた信長は大いに喜び、「天下平定の暁には近衛家に一国を献上する」と約束したといいます。前久は天正10年(1582)には太政大臣になりましたが、わずか3か月程度で辞任しました。これは、信長にその座を譲ろうとしていたからともいわれています。
本能寺の変とその後
信長から厚く信頼されていた前久ですが、本能寺の変で信長が横死すると状況が一変します。その後の前久はどのように過ごしたのでしょうか?
明智光秀と結んだと誤解され…
本能寺の変で信長が死去すると、落胆した前久は仏門に入り龍山と号するようになりました。ところが、「明智光秀軍が前久邸から本能寺を銃撃した」というありもしない情報が伝えられると、織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、それ以後は徳川家康を頼って遠江に下向します。家康の斡旋もあり一年後には誤解が解けますが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が激突。立場が危うくなった前久は、両者の和議成立後にようやく帰洛しました。
慈照寺東求堂で隠棲する
その後、前久は足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂で晩年を過ごします。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍とも西軍とも関係をもちながら中立を保ち、かつての活躍ぶりがうかがえる行動を見せたようです。激動の時代を生きた前久は、慶長17年(1612)5月8日に亡くなり、京都東福寺に葬られました。
近衛前久の人物像とは?
公家ながら抜群の行動力を発揮した前久は、どのような人物だったのでしょうか?前久の人物像がわかるエピソードをご紹介します。
和歌・連歌に優れていた
藤原氏の総本家である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)は、公家の家格の最高峰です。そのような家柄にうまれた前久は、和歌や連歌に優れた才能を発揮し、信長の七回忌にも追悼歌を詠みました。また、『龍山公鷹百首』という鷹狩りの解説を兼ねた歌集も執筆しており、秀吉と家康にこの写本を与えたようです。
鷹狩りで信長と意気投合!
前久は馬術や鷹狩りにも秀でており、同じく鷹狩りが趣味だった信長とはお互いの成果を自慢しあう仲でした。二人で鷹狩りに出かけた際、信長はその場で加増の命令書を書いて渡したこともあったようです。公家領としては破格の1500石だったことから、信長の前久への信頼の厚さがわかるでしょう。
波乱の人生を送った五摂家の公卿
歴史ある近衛家に生まれた前久は、幼少期からさまざまな地位を歴任し、太政大臣にまで上り詰めました。京から追放されたあとは放浪を余儀なくされた前久ですが、これは困窮のためではなく積極的に政治に参加するための手段だったとも考えられています。謙信や信長といった有力武将と交流を深め、公家とは思えぬ抜群の行動力を発揮した前久は、五摂家の公卿でありながら波乱の人生を送ったといえるでしょう。
<関連記事>
【室町幕府最後の将軍:足利義昭】その生い立ちと彼の功績とは?
【越後の龍:上杉謙信】軍神と呼ばれた戦国武将の生き様に迫る
【本能寺の変:真相諸説】なぜ明智光秀は織田信長を討ったのか
コメント