北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第10回は、幕末の函館で日本初のロシア正教会司祭となった坂本龍馬の従兄弟「沢辺琢磨(さわべ たくま)」です。
19世紀、幕府がキリスト教を禁止する中、函館で洗礼を受け、日本で最初のロシア正教会司祭となった人物がいます。その男の名は沢辺琢磨。ロシア宣教師ニコライとの出会いにより、武士が神父に転身したという、数奇な生涯をご紹介します。
沢辺琢磨とニコライ司教
男は目をカッと見開き、激しい怒りに血走っていました。拳を堅く握りしめ、函館名物の急な坂を息を切らしてのぼりきると、そこはロシア領事館の礼拝堂。ドアの前に立った男は一度深呼吸をし、腰の刀に手をかけながら大声でこう叫びました。
「御免!拙者、神明社の沢辺琢磨と申す者。ニコライ神父に話がある」
物陰からヌッと現れたのは、身の丈2メートルのロシア人、ニコライ司教でした。このとき琢磨より2歳年上の29歳でしたが、その落ち着いた風貌ははるか年上にも見えました。
「何か御用ですか」
「お主はなぜキリシタンの邪教を広めておる!この国を乗っ取る気か!返答次第ではこの場で切り捨てる!」
今にも刀を振り上げそうな激しい形相を見ても、依然落ち着き払っているニコライ司教に、琢磨はますますいきり立ちました。
「斬りたければ斬ればよろしい。ですが……、その前にどうして私の教えが邪教だと言うのですか。あなたは聖書を読んだことがありますか。一体なぜ邪教と思うのですか」
そう言われて、琢磨は答えにぐっと詰まってしまいました。尊皇攘夷、その言葉だけを念仏のように唱えてきた琢磨は、聖書を読むことなく、キリシタンは悪いものだと信じて疑わなかったのです。
「知らないのですね。それならまずは私の言葉を聞いてください。それからでも斬るのは遅くないでしょう」
「……よーし!聞いてやる。だが話しようによっては、お主の首が飛ぶぞ!」
ニコライ神父は請われるがまま、キリスト教の教義を語り始めました。刀を握りしめた狼藉者と、物腰穏やかなロシア人の神父。この奇妙な二人が、後に兄弟よりも深い絆で結ばれ、日本の宗教界において偉大な業績を遺すことになると、誰が予想できたでしょうか。1865年、明治維新の3年前の事でした。
運命を変えた江戸での事件
沢辺琢磨は1835年、高知県土佐藩士山本代七の長男として生まれました。幼名は山本数磨。従兄弟には尊皇攘夷派の武市半平太、そして明治維新の立役者、坂本龍馬がいます。数磨と龍馬は同じ年、半平太は6歳年上で、3人は幼い頃からともに遊び、そして学び、将来の夢を語り合う仲睦まじさでした。
19歳になった頃、江戸の道場にいる龍馬から便りが届きます。
「江戸は面白いところだ。お前も江戸へ来たらどうだ」
数磨はすぐさま土佐を発ち、武市半平太が塾頭をしている桃井道場の門下生となりました。そして剣術修行に励み、たちまち「カラス天狗」という異名をとるほどの腕前になります。ところが入門して2年後、数磨の運命は大きく狂い始めたのです。
ある夜、数磨は同じ道場の仲間である田那村作八に誘われ、酒を飲みに出かけます。田那村は酒癖の悪い男で、その日も酔って辺り構わず乱暴を働きました。その際、逃げた一人の通行人が風呂敷包みを落としたのです。
「野郎、何か落として行きやがった。おっ、懐中時計じゃねえか。おい数磨、これを金に代えてもう一杯飲もうや」
田那村が質屋に入ろうとするのを、数磨は止められず、仕方なく同行しました。その質屋で帳簿に書いた名前から、数磨の名前が明るみに出てしまいます。
「ご免!こちらに山本数磨という者はおるか。質屋からの通達で、強盗の容疑がかかっておる」
「お待ちください。山本はそのようなことをする人間ではありません。我々が詮議するので、追って返事を出します」
半平太は龍馬を呼び出し、二人で数磨に問い正しました。
「半平太殿、龍馬殿、誠に申し訳ありません。もとは田那村がやったことですが、止められなかった私にも咎があります」
「なんと……。お前のやったことは追いはぎ強盗だぞ!武士のすることか!田那村などと交際するからかようなことになる。言い訳無用、腹を切れ!」
「……承知しました。私にも武士の一分はあります。龍馬殿、介錯を……」
「待て待て、いちいちそんなことで腹を切っていたら体がいくつあっても足りん。ただ数磨、お前はもはや江戸に住むことはできん。この失敗を教訓に、己の運命を切り拓いてゆけ」
龍馬たちはそっと数磨を逃した後、落とし主のもとを訪ね、品物を返して謝罪し、解決を図りました。山本数磨、23歳。門まで見送ってくれた半平太と龍馬に何度も頭を下げながら、自分の愚かさに悔し涙が止まりませんでした。そして龍馬と数磨は、これが今生の別れとなったのです。
宮司として新たな人生を歩みだす
数磨は都落ちし、東北を放浪して歩きました。
「箱館は文明開化の街です。今、日本で新しいことを学ぶなら箱館しかないでしょう。それに四民平等の街とも聞いています」
旅人の話に興味を惹かれ、蝦夷の玄関口、箱館に向かいました。
「ああ……、それにしても若気の至りとはいえ、なんと浅はかだったのだろう……。龍馬さんと半平太さんとはともにこの日本を良くしていこうと誓った仲だ。命を助けてくれた恩に報いるためにも、私もこの蝦夷地で頑張らねば」
そう心に決めた矢先のことでした。箱館に到着して3日目、宿泊先に三人組の強盗が乱入してきます。数磨は江戸の道場で師範代を務めたその腕で、すかさず強盗を叩きのめし、誰一人怪我させることなく追い返しました。その勇敢な行いは瞬く間に箱館中に広まり、とくに数磨に危機を救われた旅館の主人は、彼を箱館に引き止めようと礼を尽くしました。
「本当にありがとうございました。どうか、この町にとどまってください。その方が我々も安心できます。そうだ、先生のために道場を建てます。その道場でこの町の若者を指導してやってくださいよ!」
さっそく、町の有志である山上神明社の宮司、沢辺悌之助に相談を持ちかけました。旅館の主人から数磨の人となりを聞いて深い感銘を受けた沢辺宮司は、道場建設のために境内の敷地を貸すばかりでなく、自分の林を売って数磨の暮らしの資金を援助するとまで申し出ました。
「待ってください!お気持ちはありがたい。しかし拙者はただの放浪の武士。確かに剣の腕は磨いてきましたが、免許皆伝ももらっておらぬゆえ・・・」
「先生、そうおっしゃらず、どうか剣術を教えてください」
「私は武士ではありませんが、武士の心意気を教えてください」
「……先生。私たちは免許皆伝がどうのと言っているわけではありません。先生のお人柄で町の若い者が良くなってくれればいいと思っているのです。ね、そうじゃありませんか、沢辺さん」
沢辺宮司も深く頷き、数磨は彼らの期待に応えるため、箱館に落ち着くことにしました。
そして道場を開設してからというもの、過去の失敗を取り戻すかのように一心不乱に指導に打ち込む数磨に、沢辺はますます惚れこみます。
「数磨殿、お願いがあるのです。突然こんなことを頼むのは心苦しいのですが、うちの娘を嫁にもらってほしいのです。そしてうちの神社の跡取りになってはいただけませんか」
思いがけぬ話に数磨は驚きますが、その事情をよくよく聞くと、沢辺が宮司を務める山上神明社は箱館で最も古い神社であるが、長男が7歳で亡くなっており、また自分自身病弱なため、代々続いてきた神社がいつつぶれてもおかしくないという問題を抱えていることがわかりました。
「拙者が土佐から江戸に出たそもそもの志は、従兄弟の武市半平太と坂本龍馬とともに国事に尽くすことでした。男子たるもの、尊皇攘夷の志士たる初心を忘れてはならないが、考えてみれば宮司になってもできないことはない。……沢辺殿、これまでのご恩をお返しするつもりで、拙者、喜んで婿に入らせていただきます」
25歳の数磨は、沢辺家の15歳の長女を嫁にもらい、新しく生まれ変わるつもりで、名を山本数磨から沢辺琢磨と改めました。義理の父となった沢辺悌之助はこれに安心したかのように、翌年、この世を去ります。
宮司として、また沢辺家を背負って立つ身として、神社の集会や公の場に出席し活動するようになった琢磨は、文武両道の名士として箱館中の人々から信望を集めるようになります。そんな琢磨が、日本を脅かす危険な存在として敵視していたのが、外国領事館でした。やがてその増悪は、ロシア正教会のニコライ神父へと向けられていくのです。
ニコライ司教との出会い
25歳で尊皇攘夷派の武士から一転して神明社の宮司となった沢辺琢磨。宮司としての仕事ぶりもまた、型破りなものでした。井伊直弼が暗殺された安政の大獄が起こると、処罰された諸藩の人々のために義援金を募り、箱館から募金を送って救済に乗り出します。また当時、アイヌ民族は和人の家へ上がることを禁じられていましたが、琢磨は神明社の座敷に彼らをどんどん招待し、一緒に食事をしたり、酒を飲み交わしました。
そんな豪放磊落な彼のもとへ、次第に浪士や志士たちも集まるようになります。そこで持ち上がる話題は決まって、異なる宗教を信ずる外国人の排除でした。この頃、開港したばかりの箱館の町には、外国領事館が立ち並び、大勢の外国人が出入りしていたのです。
「幕府のなんたる弱腰のことか!外国人がこの町を我が物顔で歩くのは、日本の将来のためにならん!特にあのロシアの4つの建物はなんだ。まるで箱館全体を見下ろすかのように坂の上に優雅に建っている。ええい、腹の立つ。どうにかして、焼き払ってやりたいものよ」
そんな時、琢磨に一世一代のチャンスがめぐってきます。ロシア領事が息子のために剣道の師範を探していたのです。琢磨は渡りに舟とばかりに承諾し、領事館へもぐりこむことに成功しました。こうしていざロシア領事館で偵察を始めてみると、領事館に時折現れるロシア人の大男の姿が気に入りません。
「こいつがニコライという男か……。キリシタンの宣教師が日本にいること自体がけしからん。何をたくらんでおるのか、突き止めてやる!」
ロシア正教会の司教であるニコライが函館に着任したのは、琢磨が神明社の宮司となった翌年の1861年。ニコライは当時、25歳の意欲あふれる青年でした。その頃の日本はキリシタン禁制下にあり、日本人に対する布教活動は禁止されていましたが、外国人居留地内で外国人が礼拝を行うことは許されていたのです。
ニコライは領事館員やロシア船員のために布教を行うかたわらで、箱館の住民たちと積極的に交流して日本語を習得し、日本を深く知るために儒学者のもとで「古事記」「日本書記」などの史書や仏典を学ぶ博識な人物でした。
ある日、領事館に行った琢磨は、ニコライが日本の古典を読んでいるのを見て、怒りを募らせました。
「おのれ~、憎っくき日本の敵め。この国の歴史を調べて、いずれ日本を属国にしようとしておるな。許せん!切り捨ててくれるわ」
ニコライの来日から4年後の1865年、琢磨はついにニコライの殺害を決意して、坂の上に優雅にそびえるハリストス正教会を訪れました。
「拙者、沢辺琢磨と申す者。お主を殺しに参った」
しかし、片手を腰の刀にかけ、目を吊り上げている目の前の琢磨を見ても、ニコライは全くひるむ様子もありません。それどころか、慈愛の表情さえ浮かべているのです。
「領事館で何度もお目にかかっている方ですね。どうされましたか」
「国のために国民がひとつにならなければならないこの大事な時勢に、外国の邪教で人の心を乱そうとするとは何事だ。日本には日本の神がいる。お主のしていることは立派な犯罪だ」
「それならばまずあなたは、私の宗教を研究し、理解されるべきではありませんか。その上で邪教と判断されるなら、私を殺しなさい」
確かに一理ある。相手のいい分も聞いた上で、完膚なきまでに叩きのめすのがよかろう。そう考えた琢磨は、以来、連日ニコライのもとへ通い詰め、徹底してニコライの信ずる宗教を学びました。ひとつの疑問を納得するまで何度も議論を交わし、ニコライはその都度丁寧に、熱心に説明しました。そうするうち、次第に頑なだった琢磨の心の中に変化が起こり始めます。
「私の負けだ。私が間違っていた。ニコライ神父は誠意と情熱のある素晴らしい人だ。
宗教が国民の心をひとつうにするという神父の想いは、国を案ずる私の心と同じだったのだ」
燃えるようなニコライの信仰心と、琢磨の愛国心が激しく共鳴し、ついに琢磨は日本古来の神道からキリスト教に改宗したのです。
日本人初の洗礼を受ける
「沢辺琢磨は一体どうしたんだ」。琢磨の改心は箱館の人々の間で大変な噂となりました。キリシタンはまだ禁制であり、キリシタンに関わる者は極刑にされる時代、攘夷論の旗を高く掲げていた神社の宮司が、邪教としていたキリシタンに転向してしまったのです。これまで町の名士として尊敬と信頼を一身に集めていた沢辺家の若き妻や母の苦しみはことさら大きく、一家はたちまち窮地に追いやられました。特に妻は夫に裏切られたという想いで、泣きながら家に火を放ってしまいます。
「すまない。だがお前たちを決して裏切ったわけではない。今はつらいだろうが、いつか私の気持ちがわかってくれたら嬉しい」
琢磨は焼け出された神社を後にし、妻と母と連れ、町の外れの掘っ立て小屋にひっそりと身を寄せました。
一方、琢磨の友人たちも口々に彼を責め、深い嫌悪感を表しましたが、琢磨は自信に満ち溢れていました。
「お主たちを敵に回すことも重々承知している。それでも私のような人間でもニコライ神父の豪胆さ、慈愛に満ちた崇高な教えに心酔したのだ。お主たちもはじめから心を閉ざさず、ぜひキリストの教えを知ってほしいのだが……」
彼はことあるごとに人々に伝道の道を開こうと考えていました。その言葉に最初に耳を傾けたのは、親友であった医師の酒井篤礼(さかい とくれい)でした。
「お前がそれほど言うのなら俺もぜひ聞いてみたい。人はなぜ生まれ、なんのために生きているのかを」
こうして酒井もニコライの信徒となり、さらに浦野という友人が加わり、3人は、キリスト教禁令下の日本で、年号が明治に改まるわずか数ヶ月前に、ニコライから洗礼を受けます。パウエル沢辺琢磨33歳。この日本人初の洗礼が、函館ハリストス正教会、そして日本正教会の誕生の礎となったのです。
日本人初のロシア正教司祭としてニコライを支えた
その数ヶ月後、明治時代が訪れると、箱館では明治新政府により、キリスト教禁制も一段と厳しくなるだろうとの噂が広がりました。命の危機を感じた琢磨は、一時町を離れることにします。
「必ず戻ってきます、神父様。いつの日か平和な世の中が訪れた時、必ずや神父様の教えが多くの日本人に伝わることを祈っています」
「パウエル沢辺、決して死なないでください。この数年間、あなたの存在がどれほど私の励みになったことか、計り知れません。どんなに年月がかかっても、必ず私とともに伝道に励みましょう。それがあなたの使命なのです」
「ええ、神父様。きっと!」
2人は再会を誓い合って別れました。琢磨は洗礼を受けた2人の仲間とともに本州に渡り、各地で身を潜めながら細々と地域の人々に伝道活動を行いました。しかし、明治4年、琢磨は石巻で旧幕府軍の残党と間違えられ、捕えられてしまいます。その夜、獄中の琢磨を訪ねてきたのは、彼を捕らえた役人の一人でした。
「お前の所持品の中に入っていたこの本は何だ。教えてくれ」
「これはキリスト教の書物です、お役人殿。……もしや興味がおありで?それならば真の教えを説いて差し上げましょう」
琢磨はニコライの教えが、日本を救うという信念を持って説きました。儒学を学んだ武士たちを相手にしなければならない時もあると思い、その時のために、日々儒学や日本の古典も学んできました。今、その成果が表れ、獄中で役人までもを改心させることに成功したのです。
その後明治6年、待ちに待ったキリスト教の解禁で釈放された琢磨は、ニコライと妻子の待つ函館へ戻ります。そして明治8年、38歳の時、日本人最初のロシア正教の司祭となりました。罵られても迫害を受けても一途に信ずるものの道を歩む琢磨の姿に感化を受け、妻と子、母もまた、ともにキリスト教徒になり、琢磨とニコライの布教活動の手助けをしました。
「神父様、日本での伝道には、まず首都に本部を置かなければなりません。私が全て手配いたします。神父様は余計なことに心乱すことなく、伝道に没頭してください」
琢磨は土地の手配や宮大工などの人集めに駆け回り、明治24年、東京神田に、のちの重要文化財となる「ニコライ堂」を建立し、50年間にわたりニコライを支えていきました。
武士を捨て、宮司の職を捨てて、キリスト教の世界に身を投じた沢辺琢磨。命をかけて敬愛し続けたニコライ大司教が永眠した翌年の大正2年、ニコライの後を追うようにその生涯を閉じました。享年78。それは、まるで近代日本史の遍歴と重なりあうような波乱の生涯でした。
(出典:「第八集 ほっかいどう百年物語」中西出版)
STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。
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