皆さ~ん、大河ドラマ『西郷どん』観てますか?戦国時代は好きだけど、幕末はよくわからなくて…という人も、けっこういると思います。でも、戦国時代も幕末も同じ日本の歴史だから、一つながりに流れていて、決して別物ではありません。
戦国の城の極意をライトにお伝えする「ネコの巻」、今回は『西郷どん』にも登場する鹿児島城について、ちょっと考えてみましょう。
倒幕は関ヶ原のリベンジだった!?
そもそも、倒幕の立役者になったのは薩摩藩と長州藩、つまり島津家と毛利家なわけですから、考えてみれば260年たってから関ヶ原のリベンジをなし遂げたようなもの。大政奉還が二条城で行われたり、会津若松城が戊辰戦争の舞台となったり、西南戦争で熊本城が戦場になったりしたのも、決して偶然ではありません。
幕末の複雑な政治情勢だって、戦国大名たちの外交・同盟関係と似たようなもの。そう考えれば、幕末もけっこう面白そうでしょう?
薩摩藩島津家の居城である鹿児島城は、またの名を鶴丸城ともいう平城です。島津義弘のあとをついだ家久が、慶長7年(1602)から築きはじめ、2年後に完成したといわれています。関ヶ原合戦の後に起きた、全国的な築城ラッシュの頃ですね。
この頃の島津家は、56万石を領する西国屈指の勢力。のちに琉球を支配下において、その総石高は73万石、加賀前田家100万石に次ぐ全国第2位の大大名となります。
となれば、その居城である鹿児島城(鶴丸城)も、さぞや天下無双の堅城であろう、と思いきや…。
城というには質素?な鹿児島城
鹿児島城は本丸と二ノ丸からなっているのですが、石垣はあまり高くないし、水堀も申しわけ程度の幅しかありません。しかも、水堀が回っているのは本丸の2面だけ。本丸の表門は枡形虎口になっているので、立派な櫓門が建っていたようですが、他には櫓台も見あたらないし、何といっても天守がない!そのため、見ばえがしないのです。
はっきりいって、城というより屋敷と呼んだ方がしっくりくるような造りで、2~3万石クラスの小さな大名が住んでいる陣屋と、大差がありません。すぐ後には城山という険しい山があるので、まあ、いざとなったら山の上に立て籠もるつもりかもしれませんが、かといって山頂に天守がそびえているわけでもありません。
73万石の居城がコレでいいの?と思ってしまいますが、ここが城というものの面白いところなのです。
居城を頑丈に築いても意味がない?
まず、鹿児島城を見ていてわかるのは、「城とは権威・権力の象徴として築かれるものではない」ということ。権威や権力の象徴であれば、73万石の居城も3万石の居城も大差ない、などということはありえません。自分の権威や権力を示すため、領民たちがひれ伏すよう、まわりの大名たちにナメられないように、熊本城と同じくらい立派な5重の天守が、最低限でも必要だったはずです。
では、島津家はなぜ、こんな屋敷構えの城でよしとしたのでしょう?
ここで、「城とはそもそも軍事施設」という観点から考えてみましょう。そう、井伊直政は徳川軍の対豊臣最前線基地として彦根城を、池田輝政は大坂城と西国大名との間にクサビを打ち込むために姫路城を、それぞれ築いたのです。
さらに、関ヶ原合戦ののち、島津家がおかれた立場と戦略を考えてみましょう。家久の父である義弘は、関ヶ原合戦では西軍に属し、東軍と本格的な戦闘は交えませんでしたが、戦場を強行突破して薩摩に帰り着きました。そして、徳川家康が着々と権力を固めてゆく中で、義弘・家久父子は生き残るための戦略をさぐることになります。
島津家の領地は、薩摩・大隅と日向の一部。九州の南の太平洋側から東シナ海側にまたがる、広い範囲です。でも、ここは日本の一番南の端で、後は海。つまり、もし戦争になって敵が領内に攻め入ってきた場合でも、援軍を期待することはできないのです!
そもそも、大名が居城を堅固に築く最大の理由は、敵に攻めこまれた場合でも、援軍が来るまで自力で持ちこたえるためです。いくら天下無双の堅城に籠もっていても、援軍が来てくれなければ、ジリ貧になってしまいます。小田原の役の時も、伊達政宗が豊臣秀吉に屈したことで、北条家の命運は尽きてしまいました。
つまり、地政学的に援軍が期待できない島津家としては、居城を頑丈に築いてもムダということになるのです。
島津家が考えた、生き残るためのシステムとは?
では、島津家はどのように生き残ればよいのでしょう?島津家が頼れる条件としては、自力で大きな兵力を持てることと、領地が広いことがあります。
となれば、領内のあちこちに敵を足止めするポイントを用意しておいて、攻め入ってきた敵を消耗させ、どこかで決戦を挑んで撃退するのが、もっとも理にかなった戦略となります。敵を足止めするポイントとは、支城のような施設です。
そこで島津氏が採ったのが、「外城(とじょう)制度」というシステムです。領内の100カ所以上の郷を軍事基地と見なして、「麓(ふもと)」と呼ばれる武士たちの集住地区を設けたのです。
ただし、「外城制度」と、それに基づいた迎撃戦略を維持するためには、たくさんの兵力が必要です。このため島津家は、多くの下級武士を抱えており、他の大名家にくらべて武家人口の割合が高くなっていました。彼ら下級武士たちが貧困にあえいでいた様子は、『西郷どん』で描かれているとおりです。
そして、こうした下級武士たちの中から、明治維新の原動力となる人材が現れてくるのです。土佐山内家の場合も、山内家に従って土佐に入ってきた家臣たちと、もともとの土着の武士たちとの間に身分格差があり、そこから幕末の人材が生まれてくる様子が、『龍馬伝』で描かれていましたね。思い出した人も多いのでは?
このように、戦国から幕末までの歴史が一つながりに流れていることが、城をとおしてちゃんと実感できるのです。
「戦国の城・ネコの巻」は今回が最終回となります。約1年間、ご愛読ありがとうございました。あなたとは、きっとまた、どこかでお目にかかれるでしょうから、それまでしばし、よい城歩きを!
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【 戦国の城・ネコの巻 】連載一覧
第10回「戦国城歩きの極意」
第9回「菅谷館か菅谷城か」
第8回「戦国の城は丸坊主だった?」
第7回「櫓の話」
第6回「城の形はネコ耳をめざす?」
第5回「夏はゆるりと平城を」
第4回「本当は怖くない八王子城御主殿の滝」
第3回「天守って何だ!」
第2回「深大寺城どうでしょう?」
第1回「プロローグ」
【 城の本場は首都圏だった!? 】続100名城もあり!『首都圏発 戦国の城の歩きかた』が発売
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