【大森兵蔵の生涯】安仁子との結婚とオリンピックでの働き

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【大森兵蔵の生涯】安仁子との結婚とオリンピックでの働き

2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では、主人公・金栗四三(かなくりしそう)を中心にさまざまな人物が登場しますが、その中の一人が竹野内豊さん演じる大森兵蔵(おおもりひょうぞう)です。
兵蔵はストックホルムオリンピックにおいて日本選手団の監督として尽力しました。また、当時としては珍しく国際結婚していたことでも知られています。
今回は、兵蔵の生涯や人物像、国際結婚の経緯、オリンピックでの働きなどについてご紹介します。

大森兵蔵の生涯と人物像

兵蔵はバスケットボールとバレーボールを日本へ伝えたことでも知られています。その裏には、彼の熱い想いが隠されていました。

国際YMCAで体育を学ぶ

米国YMCA時代の大森兵蔵
米国YMCA時代の兵蔵です。(右端上)

兵蔵は明治9年(1876)岡山県に生まれました。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学したのち、アメリカのスタンフォード大学に留学しますが、中退して同国の国際YMCAトレーニングスクールに入学します。帰国後の明治42年(1909)東京YMCAに就職すると、初代体育指導主事に就任して近隣の大学で指導を行いました。
アメリカで最新のスポーツや体育学を学んだ兵蔵は、ここでバスケットボールとバレーボールを日本に伝えることになります。今でこそ両方とも身近なスポーツですが、兵蔵の働きがあったからこそ日本でも根付いたといえるでしょう。

セツルメント事業に尽力

アメリカ人と日本人の体格差に驚いた兵蔵は、日本人の体格向上を目指してセツルメント事業を手掛けました。これは社会事業の一つで、住民と接触しながら医療・教育・保育などを行う地域福祉活動です。兵蔵がこの事業に取り組んだ背景には自分自身の虚弱体質も関係しており、幼少期から運動すれば体質を改善できると考えたのです。

アメリカのYMCAでは、健康増進の一環としてバスケットボールとバレーボールが奨励されていました。すでに野球、水泳、サッカーなどがありましたが、どれも屋外競技のため、冬の悪天候時にできるものがなかったのです。
兵蔵とともにアメリカ視察を行った山本邦之助は、これに倣って東京YMCAに体育館とプールの建設を提案しましたが、残念ながら受け入れてはもらえませんでした。その状況は改善しなかったため、兵蔵は就任からわずか1年で体育指導主事を辞めてしまいます。
そして明治41年(1908)兵蔵は私財で有隣園を設立します。これは幼稚園・図書館・授産所などを備えた複合的施設で、彼は妻とともにYMCAの英語講師として働き、施設を運営していきました。

大森安仁子と国際結婚の経緯

兵蔵を支えていたのが、アメリカで結婚した妻のアニー・シェプレーです。彼女は結婚後に来日し、帰化して大森安仁子と名乗ります。二人の国際結婚には、どのような経緯があったのでしょうか。

兵蔵とアニーの出会い

アニー・シェプレー
アニーが若い頃の肖像画です。

二人は、兵蔵が国際YMCAトレーニングスクールの学生だったころに出会いました。画家として生計を立てていたアニーが作業に集中しようと家政婦募集をしたところ、ちょうど夏休み期間だった兵蔵が応募してきたのです。
見事合格した兵蔵でしたが、アニーに合う料理が作れず、雇われてから2日後にはアニー自身が料理していたといいます。そのため「家政婦」を辞めたいと申し出ると、兵蔵を気に入っていたアニーは他の料理人を雇い彼に力仕事を任せるなど、夏休み期間が終わっても使用人としてとどめました。

結婚後の兵蔵とアニー

二人はその後も文通でやり取りし、明治40年(1907)10月1日にアメリカで結婚式を挙げます。このとき兵蔵は31歳、アニーは50歳で、国籍や年齢差を乗り越えてのゴールでした。
しかし、二人の結婚生活は平穏ではなかったかもしれません。というのも、兵蔵の実家はアメリカ国籍のアニーとの結婚を認めず猛反対していたからです。結婚から4年たった明治44年(1911)ようやく両親が結婚を認め、アニーは帰化して大森安仁子を名乗り始めます。アニーから安仁子となって、ようやく安堵できたかもしれませんね。
二人はともに働きながら、セツルメントハウス・有隣園を運営しました。さまざまな障害があったとはいえ、まさに夫婦二人三脚の生活をしていたといえるでしょう。

オリンピックと2人の結末

大森兵蔵の写真
明治40年(1907)の兵蔵です。

数々の困難にも負けず絆を深めていった二人ですが、その夫婦生活は長くは続きませんでした。兵蔵の体は病に侵されていたのです。人々の体質改善を目指していた彼がそのような最期を迎えるのは、まさに皮肉といえるかもしれません。

無理を押してのオリンピック

ストックホルムオリンピックの入場式
ストックホルムオリンピック入場のとき。旗手・三島弥彦の後ろが兵蔵です。

オリンピックへの参加が決まると、国内のオリンピック協会として大日本体育協会が設立されました。役員に選出された兵蔵は、アメリカで得た知識をもとに、羽田運動競技場の建設に尽力することとなります。また、日本代表選手として派遣されることになった金栗四三三島弥彦に英語学習の支援を行い、監督としてストックホルムオリンピックに同行しました。
ところが、このときの兵蔵は肺結核を患っており、道中で症状が悪化してしまいます。ストックホルムに着く頃には部屋から出られず、現地練習にはほとんど参加できませんでした。それでも、金栗の競技当日は無理を押して応援に出かけたそうです。
観戦後はドクターストップがかかり、しばらくストックホルムで静養が必要となりました。帰国する金栗と三島が訪ねても、会えない状態だったようです。

兵蔵の最期と安仁子の決意

静養のかいあってか病状を持ち直した兵蔵でしたが、安仁子の親戚を訪ねてアメリカに渡った後、再び病状が悪化して入院を余儀なくされます。それから1カ月後、彼は36歳という若さでこの世を去りました。
兵蔵の死後、安仁子は遺骨とともに日本へ帰り、夫の遺志を継いで有隣園の運営を続けます。また、関東大震災が起こった際は被災者を救護するなど尽力しました。
そんな安仁子でしたが、戦時中の反米感情の高まりから有隣園の運営が厳しくなり、その後は別荘で過ごすようになります。夫の命日には誰にも会わず一人で過ごし、そのまま日本で亡くなりました。

享年36歳の早過ぎる死

スポーツ界の発展とセツルメント事業に尽力し、早過ぎる一生を終えた大森兵蔵。現在バスケットボールとバレーボールが多くの人にとってなじみ深いことを考えると、兵蔵が近代スポーツにもたらした影響は大きいといえるでしょう。彼の死後、その遺志は妻の安仁子へとしっかり受け継がれました。安仁子が兵蔵の遺志を受け継ごうと決意した裏には、国境を超えた深い愛があったに違いありません。

 

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