鎌倉幕府を築いた源頼朝は、愛妾(あいしょう)との浮気で妻の北条政子を激怒させ、愛妾の住む家を破壊させた「亀の前事件」という強烈なエピソードを残しています。このエピソードの中心となった愛妾が亀の前です。今回は、亀の前の生い立ちや事件のてん末、その後の伝承についてご紹介します。
頼朝との出会いと寵愛の始まり
まずは、亀の前の生まれから、頼朝に出会い、鎌倉に呼び寄せられるまでを解説します。
良橋太郎入道の娘として生まれる
亀の前は父・良橋太郎入道のもとに誕生しました。『吾妻鏡』では「この妾、良橋の太郎入道が息女なり」と記されるのみで、生年月日について明確な記載はありません。とはいえ、「入道」という敬称が用いられていることから、在家のまま剃髪・染衣し、仏道に帰依した人物であることが推測されます。こうして、名前が記載されていることから、身分が低い家系ではなかったかもしれません。
流刑地で育まれた愛情
頼朝は、平治の乱で父・源義朝が殺され、伊豆の蛭ヶ小島へ流刑となりました。これは頼朝13歳ごろのことです。
初めは、当時伊豆半島で最も勢力があった伊東氏の元に身を寄せていましたが、伊東氏の娘・八重姫との間に子どもまでもうけたことから、八重姫の父である伊東祐親の逆鱗に触れ、伊豆半島の中央にある韮山へと移されました。ここでの監視役である北条氏の長女だった政子から猛アタックを受けて、結婚に至ります。
政子と亀の前のどちらが先に頼朝と出会ったのかは定かではないものの、亀の前は、頼朝が伊豆で暮らしていた頃に仕えていた女性の一人とされています。『吾妻鏡』によれば「顔貌の細やかなるのみならず、心操せ殊に柔和なり」と記されており、顔立ちが美しかっただけでなく、おっとりと穏やかで優しい心映えの女性だったことが、頼朝からの寵愛を受けた理由のひとつなのかもしれません。
妊娠中の浮気!?
頼朝は伊豆で暮らしていた頃から亀の前と親密になり、この関係は頼朝が鎌倉に拠点を移した後も続いていました。日に日に亀の前への寵愛が増していった頼朝は、なんと政子が妊娠中だった寿永元年(1182)6月に亀の前を伊豆から小坪(逗子市)にある小中太光家の屋敷に住まわせてしまいます。『吾妻鏡』によると、小坪にした理由は「由比ヶ浜へ禊(みそぎ)に行く」「車大路に住む加藤景廉の病気見舞いに行く」など、出かける口実を作りやすい場所に位置していたからだとされています。
単なる嫉妬だけではない!?「亀の前事件」
頼朝からの寵愛を受けていた亀の前ですが、ついにこの関係が政子にバレてしまいます。
小窪から飯島へ
頼朝が小坪に呼び寄せた亀の前ですが、その後は居住地を小坪から飯島(逗子市)にある伏見広綱の屋敷に移しています。広綱は文筆に秀でていたことから、頼朝が鎌倉幕府を築いた際に朝廷の事由に詳しい者として推薦され、寿永元年(1182)に鎌倉へ来て頼朝の右筆(書記)になっています。つまり、鎌倉幕府においてエリートといえる人物でした。このように身分や地位が高い人物のところに身を寄せていたことも、亀の前事件を引き起こした原因のひとつといえるかもしれません。
正妻・政子に寵愛がバレる
一方、政子は寿永元年(1182年)8月12日に男児(のちの鎌倉幕府2代目将軍・源頼家)を出産します。その後、政子の父・北条時政の後妻である牧の方が、政子に頼朝の浮気を告げ口するのです。知らせを聞いた政子は激怒。牧の方の父・牧宗親に命じ、亀の前が住んでいた広綱の屋敷を破壊してしまったのです。亀の前は広綱に連れられ、鐙摺(あぶずり、現在の神奈川県三浦郡葉山町の北部)の大多和義久の家に逃れました。
政子が激怒したワケ
現代の価値観で言えば、妊娠中の浮気発覚に怒り狂う政子の心情は察して余りあるものですが、いくら嫉妬深くても、愛人がかくまわれていたからといって夫の部下の屋敷を破壊するのは尋常なことではありません。政子がここまで激怒した理由は、鎌倉幕府のエリートである広綱が亀の前をかくまっていたこと、政子の実家である北条家が当時それほど権力を持っていた家系ではなかったことなどが関係しているのではないかと考えられています。
頼朝は幼少期を京で過ごしており、基本的に京の価値観を引き継いでいます。広綱を重用したのも朝廷のことはもちろん、京のことに詳しかったからでしょう。そんな京では当時、一夫多妻制で何人も男児が生まれた際、「母親の身分がより高い男子が嫡男」とされることが多かったのです。
これに対して、政子が過ごした当時の関東では「長男が嫡男」となることが通例でした。つまり、政子が亀の前より先に男児を産もうと、亀の前の身分が高ければ京の価値観を持つ頼朝が亀の前との間に生まれた男児を嫡男に選び、亀の前を正妻として迎える可能性が高かったのではないかと考えられます。政子の怒りは、女としての嫉妬以上に、自分の居場所を奪われることへの危機感があったからなのかもしれません。
その後の亀の前
亀の前事件のあと、怒った頼朝は鐙摺に出向き、家を破壊した宗親を呼び出して詰問します。宗親は平謝りするものの、怒りの収まらない頼朝は、宗親の髻(もとどり)を切り落としてしまいます。当時、髻を切られることは武士にとって最大の恥だといわれており、これを知った政子の父・時政は宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて鎌倉から出て行ってしまうという大騒動に発展してしまいました。
一方、亀の前は頼朝によって小坪に呼び戻されています。小坪に戻ってきた亀の前がどのように過ごしたのかはわかっていませんが、実は三浦半島に亀の前と境遇の似た女性の伝承が残っています。それによると、彼女は頼朝の愛妾で、義久に託されて「椿の御所」と呼ばれる頼朝の別荘にかくまわれ、頼朝の死後には尼となって椿の御所に「大椿寺」を開いたと伝えられています。真相は不明ですが、椿の御所は鎌倉幕府の歴代将軍に引き継がれています。もしこの女性が亀の前と同一人物だったなら、頼朝亡き後も長い間鎌倉幕府の行く末を見守っていたのかもしれません。
政子最大のライバルとも言える、頼朝の愛妾
政子の気性の激しさを表す事件として有名な亀の前事件。そのエピソードの中心人物である亀の前は、容姿も性格も優れた女性だっただけでなく、身分の面でも政子と渡り合えた可能性があったというのは興味深いですよね。頼朝の愛妾だった亀の前は、政子にとっては最大のライバルだったのかもしれません。
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