【越後の龍:上杉謙信】軍神と呼ばれた戦国武将の生き様に迫る

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【越後の龍:上杉謙信】軍神と呼ばれた戦国武将の生き様に迫る

戦国時代の越後国の大名・上杉謙信は、内乱続きだった越後を統一し国を繁栄させたことで知られています。軍神とも呼ばれる彼は、その生涯で多くの戦いに身を投じました。特に武田信玄と激闘を繰り広げた「川中島の戦い」は有名なので、一度は聞いたことがあるでしょう。
戦国武将のなかでも謙信にはさまざまな逸話が残されていますが、一体どのような人物だったのでしょうか?
今回は、謙信の活躍や有力武将との主な戦い、残された逸話などについてご紹介します。

生まれから越後統一まで

謙信の出自はどのようなものだったのでしょうか。まずは、誕生から越後統一までの経緯を振り返りましょう。

初陣で謀反を鎮圧

『諸国古城之図』より、越後国の春日山城です。(浅野文庫所蔵)

謙信は、享禄3年(1530)越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として春日山城で誕生しました。母は越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘の虎御前。謙信の名は法号で、本名は長尾景虎(かげとら)といい、のちに将軍・足利義輝から一字賜って輝虎(てるとら)と改めています。
この当時の越後は内乱が激しく、父・為景は戦を繰り返して権勢を振るったものの越後を平定できませんでした。
父の隠居後は兄・晴景が家督を継承しましたが、病弱な兄には越後をまとめられず豪族による謀反が勃発。謙信はこれを見事壊滅させ、15歳で初陣を飾ります。

家督相続して越後国主となる

天文17年(1548)晴景が謙信を養子にして隠退すると、春日山城に入った謙信は19歳で家督を継承し守護代になりました。その2年後、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去し、将軍・義輝から越後守護の代行を命じられて越後国主となります。しかし同年12月に、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が謙信の家督相続に不満を持ち挙兵。これを鎮圧すると国内の内乱は収まり、謙信は22歳で越後統一を果たしました。

合戦を重ねて勢力を強める

月岡芳年の『芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎』です。

若くして越後を統一した謙信は、その後も勢力を強めていきます。それは亡くなる寸前まで続きましたが、そんな謙信でも病には勝てなかったようです。

関東管領職に就任

永禄4年(1561)関東管領・上杉憲政の養子となった謙信は、山内上杉家の家督を譲られます。このとき上杉姓と憲政の「政」の一字を与えられ、上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。さらに上杉家が世襲してきた幕府の要職・関東管領も相続しました。上杉家はもともと足利宗家の外戚という名門で、関東管領はそのような縁から代々任命されてきた役職です。謙信は新しく将軍就任した足利義昭からも引き続き関東管領に任命されています。

越中・能登を平定する

天正4年(1576)越中国で一向一揆支配下の城を次々と落城させた謙信は、越中守護代・椎名康胤(やすたね)を討ちついに越中も平定。また、重臣の謀反を鎮圧したことから出羽庄内地方も手に入れました。
上洛のため越後から京に軍勢を進めたい考えだった謙信は、輸送や供給の連絡路として重要な能登国に次の狙いを定めます。そして、信長派と謙信派で対立する能登を調略で支配下に入れたのです。

遠征を目前にして病に倒れる

天正5年(1577)12月、遠征から春日山城に帰還した謙信は、翌年の遠征にむけて大動員令を出しました。しかしその直前、城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、享年49歳で急死してしまいます。死因は諸説ありますが、脳溢血の可能性が高いようです。謙信の死後は養子の景勝が家督を継ぎましたが、内乱により上杉家は衰退していきました。

猛威を振るった謙信の戦いとは?

謙信はその強さから後世では軍神とも称えられています。ここでは、名だたる武将と激突してきた謙信の戦いを振り返ります。

川中島の戦い:武田信玄と激戦を繰り広げる

川中島の戦いを描いた『信州川中嶋合戦之図』です。(原画:勝川春亭、模写:歌川広重)

謙信といえばすぐに思い浮かぶのが甲斐国の戦国大名・武田信玄との5度にわたる「川中島の戦い」でしょう。これは北信濃の支配権をめぐる戦いで、もっとも激戦となった第四次の戦いが川中島(現在の長野県長野市)で行われたことからこの総称がつけられています。この戦いは戦国時代最大の激戦ともいわれ、第四次の戦いは両者本陣にまで至り、謙信みずから信玄に切りつけたほどだったそうです。

小田原城の戦い:北条氏康の討伐を狙う

永禄3年(1560)桶狭間の戦いによって甲相駿三国同盟の一つである今川家が崩れ、これに乗じて謙信は北条氏康討伐に出陣します。北条方の諸城を攻略して厩橋城で年を越すと、翌年3月には10万余の軍を率いて氏康の居城を包囲。ところが氏康と同盟関係にある信玄が謙信の背後を牽制したことや、長期出兵できない武将が撤兵したことから、結局落城できずに兵を引きました。謙信は越後に帰る途中、武蔵国の松山城を落城し、厩橋城に城代をおいて帰国しています。

信長包囲網:織田信長と対立する

謙信は一向一揆に苦しめられていましたが、織田信長との戦いで苦境にあった石山本願寺の顕如と和睦しています。これは将軍・義昭が幕府再興の援助を願い出たからだといわれており、この謙信の決断によって信長包囲網が築かれました。もともと信長とは同盟関係にあった謙信ですが、毛利元就とも同盟を組んだことで信長との同盟が破綻。それ以降、上杉氏と織田氏は敵対することになりました。

謙信にまつわる逸話

圧倒的な強さを誇る謙信は、どのような人物だったのでしょうか?
ここでは謙信にまつわるエピソードを4つご紹介します。

故事「敵に塩を送る」の語源に

永禄10年(1567)信玄は同盟を組んでいた今川氏真との関係が悪化し、塩を止められてしまいます。信玄の治める信濃は内陸で塩が採れないため、これは厳しい経済封鎖でした。謙信はこれを卑怯な行為だと批判し、宿敵である信玄に塩を送ります。これはのちに「敵に塩を送る」という故事にもなりました。
そのときお礼として贈られた日本刀は、重要文化財として現在も東京国立博物館に所蔵されています。

武神・毘沙門天の化身と呼ばれた

春日山城跡には「毘」の旗が掲げられています。

謙信は毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を用いました。毘沙門天は四天王の一人で、北方の守護神とされる武神です。謙信はその生涯で70回ほど戦をしましたが、大きな合戦では一度も敗戦しておらず、死後も「武田軍と上杉軍の強さは天下一だ」と称えられるほどでした。まさに毘沙門天の化身といえるでしょう。

唐沢山城での圧巻の的中突破

唐沢山城が北条氏政によって包囲されたときのこと、救援に向かった謙信はその戦況から城主・佐野昌綱の危機を感じ、自ら城に入り力を貸そうと考えました。そして、甲冑も着けずに十文字槍を構え、わずか数十騎で3万5千の北条軍の中を敵中突破したのです。北条軍は、襲えば奇策によって報いられると思い誰も攻撃しませんでした。これを聞いた北条方の将兵らは、「夜叉羅刹とは是なるべし」と謙信を恐れたといわれています。

実は女性だったという説も…

戦国時代の武将にしては珍しく、謙信は生涯独身を貫き側室もいませんでした。このことから、実は女性だったのではないかという説も囁かれています。その根拠としては、毎月腹痛を起こし合戦中でも部屋に籠っていたこと、瞽女(ゴゼ)歌という民謡で「男も及ばぬ大力無双」と歌われていたことなどが挙げられます。
真実は定かではありませんが、もし女性であれば戦国最強の女傑といえるかもしれません。

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生涯不犯の軍神だった

多くの合戦で勝利し確固たる地位を築いた謙信ですが、最後は病に倒れて亡くなりました。病没前の遠征では、上洛して信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたともいわれています。謙信がもう少し長く生きていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
彼は妻帯せず子がいませんでしたが、養子に引き継がれた上杉家はその後も継承され現在に至っています。

 

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