江戸末期、京都の町で攘夷派浪士たちを恐れおののかせたといわれる新選組。これを率いたのが局長の近藤勇です。大いなる活躍にもかかわらず、負け戦の末、慶応4年(1868)4月25日に斬首され、さらし首となりました。今回は、そんな近藤勇の生涯を振り返ってご紹介していきます。
新選組局長として活躍
天保5年(1834)10月9日武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に宮川久次郎の三男として生まれ、幼名は勝五郎といいました。15歳で天然理心流の剣術道場・試衛館に入門し、28歳で天然理心流の宗家を継いでいます。29歳の時に、清河八郎が募集した浪士組に参加するために土方歳三、沖田総司ら試衛館のメンバーを率いて京へ上りました。しかし、清河とは主義が違うことがわかり、たもとを分かち京都に残留することを決めます。
京都守護職の会津藩主 松平容保による京都治安維持政策に嘆願書を提出し、受理されたことで近藤たちは“壬生浪士(みぶろうし)”と名乗るようになります。長州が京都から追放されることになる、文久3年(1863)「八月十八日の政変(文久の政変)」時には御花畑門警護を担当。その後は京都の治安維持の功績が認められ、武家伝奏(ぶけてんそう)より「新選組」の名前を下賜されます(松平容保からとの説もあります)。
近藤勇はこのあと壬生浪士時代からの幹部である新見錦(にいみにしき)を切腹させ、さらに芹沢鴨らを暗殺し、新選組の主導権を握りました。
新選組は近藤局長のもと、「池田屋事件」「禁門の変」「三条制札(さんじょうせいさつ)事件」などで活躍し、隊士数200名を超える大所帯となり最盛期を迎えます。しかし、慶応3年(1867)の大政奉還から流れが変わり、戊辰戦争に参加するも「鳥羽・伏見の戦い」で敗れ、江戸へ戻ることになりました。
新選組改め“甲陽鎮撫隊”
鳥羽伏見で敗戦し江戸に戻った新選組は、江戸鍛冶橋門外(現在の東京都千代田区)に屯所を構えます。この地に移った新選組は、幕府から甲陽鎮撫(こうようちんぶ=現在の山梨県の治安維持)を命じられ、大砲2門、鉄砲500丁、軍資金5千両を幕府や会津藩から与えられました。このとき、“新選組”から“甲陽鎮撫隊”に名称を変更しています。
大久保剛と甲陽鎮撫隊
近藤も「大久保剛」と名前を変え、甲陽鎮撫隊と改名した新選組を率いて出陣。70名まで減っていた隊士も、新規募集の兵を加えて200名ほどになりました。しかし、練度の低い隊士が多くなったことで統率が取れず進軍が遅れ、甲陽鎮撫隊が甲斐に到着した時には、東山道先鋒総督軍によって甲府は制圧されていました。甲陽鎮撫隊は甲府盆地の東に位置する勝沼で板垣退助率いる土佐迅衝隊(じんしょうたい)と戦闘におよびますが、壊滅的な打撃を受けて敗走します。
敗走した近藤勇の足取り
甲府での負け戦、盟友たちとの別れ。近藤勇に何が起こったのでしょうか。ここでは、江戸に戻った近藤の動きについて解説します。
原田・永倉との別れ
敗走後、江戸に戻った近藤勇は八王子で江戸退去を宣言。会津での再起を考えますが、原田左之助、永倉新八らと意見が対立し、新選組立ち上げから行動を共にした2人と別れることになります。甲府での戦いで減った兵力を補充するため、江戸で再び隊士を募集し総勢227名まで回復した甲陽鎮撫隊(新選組)は、会津を目指して北上を開始しました。
再度改名!大久保大和と名乗る
近藤勇はここで再び名前を「大久保大和」に改め、新しい隊士の訓練も兼ねて下総国流山(現在の千葉県流山市)に駐屯。改名の理由は諸説ありますが、甲府での戦いに敗れたことから再起をかけて名前を変えたと考えられています。
会津行きはかなわず…流山で捕縛
甲陽鎮撫隊が流山に屯所を構えた頃、東征を進める新政府軍はすでに江戸板橋宿(現在の東京都板橋区)に到着。宇都宮城占拠を狙う会津・桑名の軍勢に対抗するため糟壁(かすかべ=現在の埼玉県春日部市)に入ります。東山道先鋒総督軍大軍監・香川敬三は東征軍の背後を甲陽鎮撫隊が襲撃する計画があることを知ると、鎮撫隊の流山の屯所を急襲して完全に包囲します。
もはやこれまでと悟った近藤は自刃することを決意しますが、土方に押しとどめられ、大久保大和の変名のまま板橋の新政府軍総統府に出頭することになりました(近藤勇の捕縛の状況は資料によって異なり、新政府軍に捕縛されたともいわれています)。
新選組局長の最期!何故、斬首の刑に
出頭した近藤は「大久保大和」であると主張し続けます。しかし、元新選組隊士で御陵衛士(ごりょうえじ)に所属していた加納鷲雄(かのうわしお)や清原清の証言で身元が確認され、新選組局長の近藤勇として裁かれることになりました。
近藤勇の処分をどうするかで、彼を擁護する薩摩藩と厳しい処分を望む土佐藩とが対立。結局、土佐藩の谷干城(たにたてき)が薩摩藩を押し切り、斬首が決定します。土佐藩が近藤勇に厳罰を望んだのは、坂本龍馬暗殺が新選組の仕業であると確信していたからだといわれています。
首の行方と墓所について
慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首されました。享年35歳。首は京都に送られ三条河原で晒し首にされましたが、その後、首は行方が分からなくなります。
首の行方は諸説あり…
近藤勇の首の行方には諸説あります。
- 大阪でさらされた後、東本願寺の嘆願で下げ渡され、東大谷に葬られた
- 新選組の斎藤一が三条河原から奪い返し、愛知県の法蔵寺に埋葬を依頼した
- 近藤勇の従兄弟近藤金太郎が、山形県米沢市の高国寺に葬った
などといわれていますが、いまだ真相は不明のままです。
墓所も各地にある
近藤の遺体に関しても不明な点が多く、その墓が各地に建立されています。東京都三鷹市の龍源寺や、処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも永倉新八により建立された墓所があります。他にも、山形県米沢市の高国寺に、いとこにあたる近藤金太郎が埋葬したとされる墓があるほどです。
人々の心に残るその生涯
幕末最強の武装集団を率いて時代の流れに真っ向から挑み、最後は志半ばでその生涯を閉じた近藤勇。新選組は幕末維新において幕府軍の象徴的な存在として、その特異な成り立ちなどから、多くの人の心を捉え、今も愛され続けています。そんな近藤勇の生涯は、新選組の短い盛衰の歴史とともに、今後も永く語り継がれていくことでしょう。
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「第21回ひの新選組まつり」
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お問い合わせHP:日野市観光協会(http://makoto.shinsenhino.com/archives/fes/)
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