火除けの守り神・金の鯱
多くの城の天守や主要な櫓のてっぺんで見かける一対の鯱(しゃちほこ)。
姿は魚、顔は虎、背中にはとげを持つといわれる想像上の動物で、建物が火災に見舞われると大きな口から水を吹きだして火を消すといわれ、火除けの守り神として据え付けられました。
織田信長が安土城の装飾に取り入れてから広く普及したとされ、派手好きだった豊臣秀吉は大坂城の天守に金の鯱を取り入れます。
豊臣政権末期から江戸時代初期には金の鯱ブームが訪れ、有力大名が競うようにして居城の天守に据えていきました。しかし、元和1(1615)年に徳川幕府が新規の築城を禁止してからは金の鯱が作られることはなくなり、諸藩の財政難もあって、それまでの金の鯱も修復時には金箔を張らないものに変更したケースが多かったようです。
盗難事件多発!名古屋城の鯱
さて、金の鯱がある城の代表格はなんといっても「金城」の異名もある名古屋城。
もともと織田氏の那古野城があった場所に関ヶ原の合戦後の慶長14(1609)年、徳川家康が築城することを決定。「天下普請」として加藤清正や福島正則ら豊臣恩顧の20余りの大名に動員命令を出しました。
家康の9男で御三家筆頭・尾張徳川家の初代である徳川義直の居城との名目ですが、家康の本当の狙いは、大坂城の豊臣家との対決を想定して東海道の備えとなる巨大城塞を設けることでした。事実、大坂の陣が勃発する7年ほど前の慶長11(1607)年から、家康は近江長浜や伏見、丹波篠山などに徳川一門や譜代大名を配置。近畿地方を中心に多くの城を普請または改修して大阪包囲網を形成していきます。名古屋城築城はその仕上げとも言えるものでした。
実は、このとき豊臣家にも動員が命じられましたが、淀殿が拒否したといわれています。
完成した名古屋城の大天守は、天守台も含めると高さは55.6メートル(18階建てビルに相当)、延べ床面積は約4400平方メートルと史上最大規模。そして屋根には徳川家の威光を示すかのように光り輝く金の鯱が置かれました。
完成当時の金の鯱には一対になんと慶長小判1940枚分、純金にして215.3キロもの金が使われたといいます。
そうなると当然、鱗の一つでも盗み出そうかと考える輩が出てくるのが世の常。江戸時代に柿木金助(かきのき・きんすけ)という盗賊が大凧に乗って鱗3枚を盗んだという伝説をはじめ、明治時代以降は少なくとも4件の盗難事件が起こったといいます。
最も有名なのは昭和12(1937)年1月にミシン工の男が大天守によじ登って鱗58枚を引きはがして持ち去るという「昭和の柿木金助」事件で、当時の名古屋市長が引責辞任する騒動にまで発展しました。
しかし、いずれの事件でも犯人はあえなく御用となっていることから、名古屋では「鱗を盗んだ者は必ず捕まる」「金の鯱に触れた者には災いが起こる」との都市伝説があるのだとか。
ただ、尾張徳川家は財政難に見舞われるたびに鯱の金の改鋳していたため、幕末のころになると金の純度は相当下がっていたようです。
その後、名古屋城は太平洋戦争末期の空襲で焼失。
現在見ることのできる鯱は戦後に復元されたものですが、それでも88キロもの金が使われているそうです。
現在、名古屋城天守閣は耐震性が問題になっており、市長が近く入場制限を発表するとのこと。
木造で立て直すという計画もあるということなので、将来、江戸時代当時と同じような絢爛豪華な城の雰囲気を味わうことができるかもしれませんね。
(黄老師)
参照元:名古屋城HP
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