幕末最強の戦闘集団といわれた新選組。事実、新選組には各剣術の流派でその名を知られた剣客が多く所属しており、その実力は名前を聞くだけで多くの討幕派志士たちを震え上がらせたほどです。今回は、最盛期には200人を数えたといわれる新選組の中で最も強かった隊士は誰なのか、文献や史料などから探っていきます。
新選組で最強とされる隊士たち
いったい新選組最強の隊士は誰だったのでしょうか。隊士たちの伝聞話や新選組組織内での役職、司馬遼太郎著「新選組血風録」「燃えよ剣」、浅田次郎著「壬生義士伝」、 池波正太郎著「幕末新選組」などの作品での扱いなどを考えると、まずこの3人の名前が浮上してきます。
一番隊組長:沖田総司
正確な生年月日は分かっておらず、陸奥国白河藩士の子供とされていますが、真偽は不明。9歳ごろに天然理心流(てんねんりしんりゅう)の内弟子となり、14、5歳で塾頭を務め、新選組参加後は一番隊組長に就任します。普段は温厚で、冗談を言って周りを笑わせるような、人間味のある存在であったと伝えられています。肺結核により慶応4年(1868)に死去しました。
二番隊組長:永倉新八
松前藩士・長倉勘次の次男として天保10年(1839)生まれ。神道無念流(しんどうむねんりゅう)の「本目録」(段位の一種)を得ました。剣術好きのため18歳で脱藩し、心形刀流(しんぎょうとうりゅう/しんけいとうりゅう)剣術道場の師範代などを務めた後、天然理心流の道場「試衛館(しえいかん)」の世話になって新選組結成に参加します。新選組では二番隊組長、撃剣師範を務めて第一線で活躍。新選組の江戸撤退後に近藤勇らとたもとを分かち、靖兵隊(せいへいたい)の一員として戦い、その後松前藩に帰参します。大正4年(1915)に骨膜炎、敗血症を発症して死去。享年77歳でした。
三番隊組長:斎藤一
明石藩の足軽の子として天保15年(1844)1月1日に生まれたとされていますが、出生に関しては謎が多く、本人も多くを語っていません。また修得した剣術流派もはっきりせず、一刀流、無外流(むがいりゅう)など諸説あります。新選組では三番隊組長、撃剣師範を務め、武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)、谷三十郎らの暗殺など、多くの粛清事案に関与したとされています。戊辰戦争では土方歳三と行動を共にし、会津藩降伏時に投降。旧会津藩士として警視庁に採用され、西南戦争で活躍しました。最終的には警部まで昇進。大正4年(1915)に胃潰瘍のため死去。享年72歳でした。
彼らが最強とされる理由
最強候補の3人の名前が挙がったところで、それぞれの戦歴を振り返ってみましょう。いかにこの3人が強かったのかを検証していきます。
“猛者の剣”といわれた沖田
沖田総司の新選組での有名な戦歴は文久3年(1863)9月の芹沢鴨暗殺、元治元年(1864)5月の大坂西町奉行所与力・内山彦次郎(うちやまひこじろう)暗殺、同年6月の池田屋事件が挙げられます。
永倉新八は「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などは子供扱いされた。本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろう」と語り、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」とも語っています。史実かどうかは不明ながら、一度の踏み込みの間に3回突きを繰り出すという「三段突き」の剣技を使ったといわれています。
神道無念流最強の男?永倉
永倉新八は芹沢鴨暗殺以外の新選組の戦闘にはほぼ全て参加しており、特に彼を有名にしたのが池田屋事件です。20数人の尊王攘夷派志士に近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で斬り込み、沖田総司と藤堂平助が途中で離脱する中、左親指に深手を負いながらも奮戦、刀が折れるまで戦ったといわれています。
新選組で伍長・砲術師範を務めた阿部十郎(あべじゅうろう)は「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と語っていました。永倉は実戦に向いた剣術で「龍飛剣」という、下段の構えから相手の剣を擦り上げつつ、相手を肩口から下へ向けて切る技を得意としていたようです。
“無敵の剣”とされる斎藤
試衛館に出入りしていたものの、浪士組として上洛した近藤らとは別行動をとっていた斎藤一。後に合流し、新選組結成メンバーとして20歳で副長助勤に抜擢され、組織改編時には三番隊組長・撃剣師範となりました。池田屋事件では土方歳三配下だったため、斬り込みには参加していませんが、この後の新選組粛清事件の陰に必ず斎藤一の名前が登場するほどです。
まだまだいる!最強候補の猛者たち
ここまでご紹介した沖田総司、永倉新八、斎藤一以外にも、新選組には名前の知られた猛者たちがいました。ここでは、最強候補の名にふさわしい人物をご紹介します。
局長を務めた芹沢鴨と近藤勇
新選組結成当初の筆頭局長であった芹沢鴨。
神道無念流の免許皆伝でしたが、新選組時代にはその武勇を披露する機会には恵まれていません。しかし、酒で寝込んだ芹沢鴨を暗殺するために土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助の4人が実行者となったことで、近藤勇をはじめとする試衛館派が、どれだけ芹沢鴨を恐れていたかが察せられます。
天然理心流宗家4代目の近藤勇。
土方歳三や沖田総司の師匠にあたります。池田屋事件ではわずか4人で20数人の尊王攘夷志士に斬り込むなど、無謀ともいえる作戦の先頭に立つこと数度。剣術の腕には相当の自信があったようです。
服部武雄の二刀流
新選組に加盟後、五番隊に所属し、慶応元年には諸士調役兼監察・撃剣師範に昇格した服部武雄(はっとりたけお)。三条制札事件で活躍後、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)らと共に新選組を脱退し、御陵衛士(ごりょうえじ)を結成しました。
新選組との死闘となった油小路(あぶらのこうじ)事件では、新選組在籍時から得意としていた二刀流を使い孤軍奮闘し、民家を背にして鬼気迫る激戦を繰り広げたそうです。新選組にも多数の負傷者を出したものの、服部の大刀が折れた隙を突いて原田左之助の繰り出したやりが刺さり、一斉に切り掛かられて絶命したといわれています。
剣術の流派から見る新選組の強さ
新選組には最大で200人を超える隊士が所属していたため、数多くの流派が存在しました。
天然理心流は近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎ら試衛館時代からの者が多く、神道無念流は永倉新八、武田観柳斎、芹沢鴨など。北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)は藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎らがいたといわれています。
天然理心流は新選組発足まで無名の流派で、「田舎剣法」や「芋道場」などと呼ばれていたようです。しかし、新選組の知名度が上がると、実戦に向いた非常に強力な剣術として、その名を馳せました。神道無念流、北辰一刀流は、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)と合わせ、江戸の三大道場としてすでに有名でした。こういった流派の剣客がそろっていた新選組は確かに強く、敵対していた倒幕派志士たちにとって、かなりの強敵だったといえるでしょう。
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結局のところ最強は誰なのか?
当時を知る隊士の証言を最も重視するのであれば、やはり沖田総司、永倉新八、斎藤一の3名が有力なのではないかと思われますが、みなさんの考えはいかがでしょうか?新選組最強の隊士は誰なのか……。結論の出ない答えを想像して楽しむのもまた歴史のロマンですね。
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