「水戸学」という思想体系を背景に、幕末の尊王攘夷運動の先頭に立っていた水戸藩。ところが、明治政府の重要ポストに、藩出身者の姿を見ることはありませんでした。吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えた水戸藩が、なぜ往時の勢いを失ってしまったのか。その大きな原因となった、幕末最大の悲劇ともいわれる天狗党の乱についてご紹介します。
水戸藩の尊攘志士・天狗党
「天狗党」とは、幕末期の水戸藩で活躍した尊王攘夷派のことを指します。
では、なぜ「天狗」なのかというと、8代藩主・徳川斉昭が天保期(1830~44)に藩政改革を実施した際、改革反対(保守)派が、改革派の藩士を非難したことがきっかけでした。改革派の藩士には身分の低い武士が多かったことから、「成り上がり者が天狗になって威張っている」という軽蔑の意味を込めてつけられた名称ともいわれており、改革派の系譜が尊王攘夷派へと続いていったことから、その呼び名も受け継がれたと考えられています。
その後も天狗党は藩の実権を握っていましたが、将軍継嗣問題や通商条約調印をめぐり、大老・井伊直弼と対立した斉昭が安政5年(1858)に謹慎処分を受けると、状況は一変しました。
勢力を盛り返した保守派の中でも、特に諸生党と呼ばれる派閥との対立が激化していきます。そして文久3年(1863)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主体とする尊王攘夷派を京都から追放した、「八月十八日の政変」をきっかけに、水戸藩の実権を諸生党が掌握。これに対して天狗党は、幕府に攘夷の実行を促すため、元治元年(1864)年3月27日、筑波山にて挙兵したのです。
天狗党の乱、勃発!
このとき、実質的な指導者として党を率いたのは、あの藤田東湖の四男である藤田小四郎で、その勢力はたちまち数百人規模に成長したといわれます。
ところが、幕府が諸藩に追討を命じたことに加え、諸生党からの攻撃が激しさを増していくことで、次第に追いつめられていきます。窮地に立った天狗党は起死回生を図るため、当時京都にいた斉昭の息子である一橋慶喜を通じて、朝廷に尊王攘夷の志を伝えようと、進路を西へ進めました。
このとき総大将となったのが水戸藩の元家老・武田耕雲斎で、一行は追討を避けながら、現在の栃木県を経て、群馬県、長野県、岐阜県を通り、福井県に至ります。
大久保利通も嘆いた、「乱」の結末
しかし、新保(現在の敦賀市内)という小さな村落にたどり着いたとき、天狗党の一行は追討軍にとり囲まれてしまいます。そのうえ、追討軍の指揮をとっていたのが、頼みとしていた一橋慶喜だったことから、同年12月17日、ついに降伏しました。
降伏後、一行はまず寺に収容されましたが、その後、肥料用のニシンを入れておく蔵へと移されると、厳しい寒さと劣悪な環境が原因で20数人が病死。さらに慶応元年(1865)2月には刑が下され、武田、藤田ら352人が死罪という、類を見ない大量処刑が実施されました。
このように厳しい処罰がなされたことに対し、大久保利通はその日記に「このようにむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記しています。
その後水戸藩では、諸生党が武田耕雲斎の一族をすべて死罪にするなど、天狗党に関与した人々への粛清が行われます。ところが、その3年後に江戸幕府が滅びると、再び天狗党が藩の実権を奪い返し、今度は諸生党に対する血なまぐさい復讐がなされたのです。
こうした激しい藩内抗争により、水戸藩では、優秀な人材がことごとく失われます。その結果、新しく誕生した明治政府にひとりの高官も送り出せないという、なんとも悲しい末路をたどることになった、というわけです。
(スノハラケンジ)
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