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【幕末に輝く刀剣たち!】維新の志士や新選組の愛刀についてまとめ

【幕末に輝く刀剣たち!】維新の志士や新選組の愛刀についてまとめ

幕末維新期に彗星のごとく登場した倒幕派・勤皇派の志士たちと、佐幕派といわれた新選組や京都見廻組などの隊士たち。彼らは京都を舞台に日々命のやり取りを繰り返していました。そんな彼らが腰に差していた刀には、どのような逸話が残っているのでしょうか。今回は、幕末史に残る人物とその愛刀についてご紹介していきます。

坂本龍馬の愛刀といえば!

明治維新の立役者といえば、まず名前が上がるのが坂本龍馬。土佐藩出身で海援隊を作り、薩長同盟を成し遂げ、大政奉還への道筋をつけた人物です。

龍馬が土佐を脱藩するときに姉の栄から“陸奥守吉行” (むつのかみよしゆき)を贈られ、このことを咎められた栄が自害すると司馬遼太郎作品の「龍馬が行く」にて描かれました。しかし近年の調査では、この陸奥守吉行はもともと坂本家に伝わる銘刀で、龍馬には当主であった兄の権平から贈られたのが正しいとされています。

陸奥守吉行とは

陸奥守吉行は刀工の名前です。刀工とは日本刀を作る職人を指します。元禄時代に土佐へ移住し鍛冶奉行となり、土佐藩で一番の刀工との評判を得ました。

陸奥守吉行

陸奥守吉行。龍馬が愛したこの刀剣は、現代になって確認されました。

現代になって確認された刃文

坂本龍馬が京都河原町の近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃されたときも、この陸奥守吉行を帯刀していたとされており、死ぬ瞬間までこの愛刀を離さなかったようです。龍馬の死後、この刀は北海道に移住していた坂本家に保管されていましたが、釧路の大火で被災します。その姿は反りをなくし、変形してしまいましたが、2015年に吉行の刃文があることが確認され、陸奥守吉行であることがわかりました。

西郷隆盛の愛刀はコレ!

今でも鹿児島県民だけでなく、多くの日本人から尊敬されている幕末期の人物といえば西郷隆盛。薩長同盟時の薩摩藩代表であり、江戸無血開城の際には唯一の陸軍大将になるなど、幕末維新に軍事・政治両面で大活躍した人物です。

この西郷隆盛が帯刀していたとされる刀が、“伊勢千子村正”(いせせんごむらまさ)といわれています。

伊勢千子村正とは

歴史好きの人ならば、一度は耳にしたことがある刀「村正」とは、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名前。初代村正が打ったとされる刀剣が有名な「妖刀村正」といわれています。

村正の名は江戸時代に流れた噂が起源とされており、徳川家に仇なす刀として一躍有名になりました。徳川家康の祖父、父、息子がすべて村正によって命を絶たれ、家康自身も村正によって数度けがを負うなど、徳川家に不吉な影を落とし続けました。加えて、真田幸村や由井正雪など徳川家に逆らった者たちが皆、村正を愛用していたと伝えられています。

村正

村正の刀剣。妖しく光るその刀身が、見る者を魅了します。

西郷の愛刀には諸説あり?

徳川幕府を倒そうと考えていた西郷隆盛が、伊勢千子村正を愛用したとされていますが、実際に愛用していた刀は山城信国(やましろのぶくに)ともいわれています。その理由として、現存する村正の数が少なく、一般的に手に入るような刀ではなかったからという説が有力です。

桂小五郎こと木戸孝允の愛刀!

幕末の長州藩は人材の宝庫で高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、大村益次郎、井上馨など数多くの政治家や軍人を輩出しました。その中でもっとも明治新政府で活躍した人物といえば、桂小五郎こと木戸孝允ではないでしょうか。木戸孝允は江戸三大道場の一つ、練兵館で5年間塾頭を勤めており、新選組局長の近藤勇に「手も足もでない」と言わしめたほどの剣術使いだったと言われています。薩長同盟の長州藩代表、新政府の参議として、五箇条の御誓文、大政奉還、廃藩置県などを提言し、新政府によって実現させた人物です。

木戸孝允が幕末を乗り切るために帯刀していたのが、“備前長船清光”(びぜんおさふねきよみつ)でした。

備前長船清光とは

備前長船清光は、備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工の流派「長船派」(おさふねは)の流れを組む刀工清光の作。この一振りは長船物と呼ばれ、現代でも高く評価されています。

また、備前長船清光作の刀剣は、忠臣蔵で吉良邸に討ち入った赤穂浪士の中心人物である大石内蔵助が愛用していたといわれています。

近藤勇の愛刀はいわくつき?

幕末の京都を舞台に倒幕派の志士たちに血の雨を降らせ、最後まで徳川幕府への忠義を貫いた浪士集団新選組の局長、近藤勇。武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)の百姓家に生まれたものの、武士に憧れ天然理心流を学び、四代目宗家となり、その後仲間と京都へ出て新選組を結成しました。

倒幕派の志士が恐れた新選組局長、近藤勇が愛した刀が“長曾祢虎徹”(ながそねこてつ)だったとされています。

新選組発祥の地

新選組は京都の壬生が発祥の地。当時は“壬生浪士”として恐れられていました。

長曽祢虎徹とは

長曾祢虎徹は江戸時代の刀工である長曽禰興里(ながそねおきさと)の入道名のひとつで、彼の作った刀は多くの大名に愛されました。尾張徳川家、土佐山内家伝来の太刀、幕末の大老井伊直弼の脇差などがあり、現代でも多くが国の重要文化財に指定されています。

大名家など上流階級者の人気を集めた虎徹には贋作(がんさく)が多く、近藤勇の愛刀も贋作ではないかといわれています。

土方歳三の有名な愛刀!

新選組の鉄の結束を誇る礎となった新選組局中法度を作り、「鬼の副長」と新選組隊士からも恐れられた、新選組副長の土方歳三。武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農土方家に生まれ、近藤勇が継承した天然理心流を学び、のちに近藤勇らと京都へ上って新選組を結成し、副長に就任しました。

幕府軍の指揮官として、蝦夷の地でも戦い抜いた土方歳三が愛した刀が“和泉守兼定”(いずみのかみかねさだ)です。

現代の五稜郭

土方歳三の終焉の地、五稜郭。この地でも和泉守兼定とともに戦っていました。

和泉守兼定とは

和泉守兼定は刀工の名前。室町時代に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活動した和泉守兼定(之定・のさだ)と、江戸時代末期に会津藩で活動した和泉守兼定(会津兼定)の2つが有名で、土方が帯刀していたのは、会津兼定の方です。

土方歳三はその生涯で二振りの和泉守兼定を愛用しており、一振り目は京都守護職である会津中将松平容保より下賜(かし)されたもの。11代和泉守兼定作のこの刀を新選組が活躍した京都で愛用していました。ニ振り目は義兄の佐藤彦五郎から蝦夷地での箱館戦争時に贈られたもので、12代和泉守兼定作です。

残念ながら、松平容保より下賜された一振り目は現存が確認されていませんが、義兄より送られた二振り目は東京都日野市にある土方歳三資料館に展示されています。
京都から会津、箱館まで幕府軍の指揮官として戦い抜いた土方歳三の右手には必ず和泉守兼定が握られていたと考えると、まさに生涯の愛刀といえますね。

彼らと刀に思いを馳せる…

幕末には下級武士出身者や農民の出など、本来なら歴史の表舞台に出るはずのない人物が多く登場します。
刀によって時代の流れを食い止めようとした新選組の近藤勇や土方歳三。
大きな組織同士を組み合わせ、刀の力を借りずに時代を動かそうとした坂本龍馬。
自身で刀を抜くことなく、幕府を倒そうとした西郷隆盛や桂小五郎。

それぞれ道は違えども、その腰や手にはいつも戦闘用、護身用として愛刀がありました。150年ほど前、動乱の時代を生きた人物とその刀たちに、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

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