幕末から明治初期にかけて活躍した大久保利通。「維新の三傑」と呼ばれる大久保は、日本史を語る上で欠かせない人物です。彼は近代日本を形づくる多くの偉業をなすとともに、多くの名言を残しました。それらの名言からは、希代の革命家であり、政治家でもある大久保が幕末から明治の世をどのように生きたのか、彼の人物像をうかがい知ることができます。今回は、大久保利通の格言や名言とその言葉たちが生まれた背景、大久保の人物像についてご紹介していきます。
大久保利通の名言集
大久保利通には、数々の格言や名言があることで知られています。ここでは、その中から代表的なものを6つ挙げて見ていきましょう。
為政清明(いせいせいめい)
この言葉は、大久保の座右の銘に当たります。「政治を行うには、心も態度も清く明るくなければならない」という意味の言葉です。
明治初期の主導権を握った大久保でしたが、死後は私財が全く残っておらず、むしろ国のために多額の借金をしていました。彼にとっては、政治で私腹を肥やすことなど思いも寄らず、いかに強い日本をつくっていくかが大切なことだったのでしょう。
堅忍不抜(けんにんふばつ)
同じく、大久保の座右の銘に当たる言葉です。「どんな困難や誘惑にも心を動かさず、耐え抜くこと」を意味しています。
大久保は、父が薩摩藩のお家騒動に巻き込まれ、若い頃は日々の食べ物にも困るほどの困窮生活を送りました。しかし、明治維新やその後の国づくりでは、いくつもの困難を乗り越えて事業を成功させました。「堅忍不抜」には、そのような厳しい状況でも、たゆまず努力し続けた彼の精神が表れています。
彼は彼、我は我でいこうよ
この言葉は大久保の精神論と関連しています。幕末・明治初期には、過激派が敵対勢力を暗殺したり、西洋化を嫌う保守派が幅を利かせたりと、国の発展にとって必ずしも合理的ではない考えや行動を示す者も多くいました。大久保はその時代にあって、他の維新志士とは異なる方法で行動し、維新を推し進めていきます。
大久保は当時所属していた薩摩藩の藩主である島津斉彬(しまづなりあきら)派がお由羅騒動で敵対したとされる、島津久光に取り入り、薩摩藩を動かす地位に立ちました。こうした行為は、当時の大久保の真意を知らない者たちから、かなり非難されたようです。しかし、目的を達成するためには手段を選ばない大久保は全く気にせず、薩摩藩を討幕運動に引き入れ、幕府を倒しました。この言葉には、大きな困難を前にしても、自分がベストと思う方法で解決してみせるという大久保の姿勢が表れています。
この難を逃げ候(そうろう)こと本懐にあらず
この言葉も大久保の精神論の一端です。大久保が生きた幕末・明治初期は、旧政権が崩壊し、新しい政権に移った時代。欧米の植民地化が続くアジアの情勢や、将軍・幕府・藩というシステムの廃止、西洋文化を取り入れることによる国の発展の開始といった、日本史上まれに見る複雑で過激な出来事が数多く起こりました。
大久保はその時代を主導しながら多くの競争、困難にぶつかりました。そうした状況でも決して逃げず、事業を成し遂げるために行動し続けた大久保の姿勢が、この言葉には表れています。
おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が
この言葉は、大久保と同じ薩摩出身の維新志士、西郷隆盛に関連した名言。維新前、大久保と西郷は薩摩藩と倒幕勢力を主導し、時代を明治へと切り開いていった最も重要な人物でした。やや理想主義派の西郷が過激な改革を進め、現実的な大久保がネゴシエーションや実務的なことを進めていくという名コンビ。そんな二人も維新後の政策の相違から対立し、西南戦争という日本最大の内戦につながってしまいます。
かつて生死を共にした仲である西郷を殺さなくてはならなかった大久保。彼は万感の思いを持って西郷の死を受け入れ、それでも強い日本をつくる情熱を持ち続けました。そんな彼の熱い思いが、この言葉には詰まっています。
自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない
大久保は、敵対することになった西郷について、その死後も西郷と最も強い絆で結ばれているのは自分だと考えていました。大久保は自分が行った工作により明治政府から去り、やがて鹿児島で西南戦争を起こし、多くの薩摩藩士たちと敗死した西郷を下に見ることはありませんでした。心の中で尊重し続けたという気持ちが、この言葉から伝わってきます。
名言から読み取れる大久保利通の人物像
「堅忍不抜」「彼は彼、我は我でいこうよ」「この難を逃げ候こと本懐にあらず」という言葉から大久保は、自分が掲げる目標に対して決して妥協せず、どのような困難も自分がベストと思う方法で乗り切る人物だといえます。
その言葉の通り、大久保は薩摩藩の倒幕勢力化、情勢を維新の方に傾ける工作、戊辰戦争の勝利、新政府を外征ではなく内政重視に傾ける努力など、非常に難しい状況で困難な仕事をやり遂げました。苦しい時も耐え忍び、どんなときも国のために尽くす、実直な生き方をしていたといえるでしょう。
西郷隆盛との関係性について
西郷隆盛に関する名言からは、彼に対する深い思いが垣間見られます。幕末から明治にかけて生死を共にし、活躍した2人ですが、西南戦争で戦うことになりました。勝利者である大久保は自刃した西郷を責めることはせず、最愛の友人の死が、新しく強い日本につながることに万感の思いを込めて、ご紹介した名言を残しました。この2人の関係性の深さもうかがい知ることができます。
大久保は、木戸孝允をはじめとした維新志士の中でも、「冷血」や「無情」というイメージが強くある人物です。それも、激動期をくぐり抜けた彼の評価としては当然かもしれません。ですが、これらの言葉からは、その「冷血」な仮面の下にある大久保の熱い心情を知ることができます。大久保は西郷を最後まで日本を思う志士と捉え、その才能や精神を高く評価していることもわかり、熱い男の友情のようなものを我々に感じさせてくれます。
多くの名言を残した大久保
明治維新や廃藩置県など、近代日本にとって重要なさまざまな事業を成功させ、多くの名言を残した大久保ですが、最後は紀尾井坂で暗殺されてしまいます。彼は内務卿という権力者でありながら、無欲であり、日本を強い国にすることに命と情熱を捧げました。時に「冷血」に、自分の信念を貫き通しつつも、心の底には盟友・西郷への熱い情を持った人物でした。幕末・明治の激動期を闘い抜き、国家の発展に尽くした人生を送ったことが、彼の残した数々の名言から想像することができますね。
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