幕末に活躍した新選組の局長・近藤勇と副長・土方歳三が生まれつきの武士ではなく、農民の出身であったことはよく知られています。彼らは武士になりたいという目標を持ち、それを見事に実現させた者たちでした。
では、彼らは正確にはいつ武士になれたのでしょうか。従来あいまいであったその時期について、解説してみたいと思います。
浪人の養子になった近藤勇
近藤勇は、天保5年(1834)、武蔵国多摩郡上石原村の農家に、宮川久次郎、みよの子として生まれました。幼名は勝五郎。上に兄が2人いる三男でした。
父の久次郎は農民ながら気概のある人物で、3人の子のうち勝五郎が最も有望であると見たのか、いつもこんなことをいっていました。「おまえは侍になって、えらい手柄を立てよ」とーー。
もちろん江戸時代においては、農民が武士になるというのは極めて難しいことでした。それを承知の上で、あえて父は勝五郎に大きな夢を託したのです。
当時、宮川家には江戸から剣術家の近藤周助が天然理心流剣術を教えに来ており、勝五郎も15歳のときに入門して修行を始めました。生来の剣才があったのか、勝五郎の腕はめきめきと上達し、翌年16歳のときには早くも目録を与えられています。
そして、実子のなかった師匠近藤周助から、「わが近藤家の四代目として、天然理心流を継がせることのできる者は、勝五郎をおいてほかにいない」と見込まれ、勝五郎は周助の養子に迎えられたのです。嘉永2年(1849)10月のことでした。
ここで問題になるのが、近藤家というのはどういう身分の家であったかということです。実は近藤家は、身分的には一応武士とされていましたが、どこから給金も手当ももらっていない、いわゆる浪人でした。門人から受け取る指導謝礼金のみが収入源であり、家計的にはかなり苦しいものがありました。
大小2本の刀を帯びることは許されていましたから、外見的には武士の体裁は整っていたとはいえ、どこにも雇用されていない浪人であることは周囲にはわかってしまうもの。そういう意味では、勝五郎あらため近藤勇も、武士の身分を得たといっても手放しではよろこんでいられない状況にあったのです。
土方歳三の場合はどうだったか
土方歳三は、近藤勇より1年遅れの天保6年(1835)、武蔵国多摩郡石田村の農家土方家の四男に生まれました。父の隼人(義諄)は歳三が誕生する直前に病死しており、また長男の為次郎は目が不自由だったため、家督は次男の喜六が継いでいます。
歳三は四男という身軽さもあり、早くから商人として独立することを考え、江戸の商家に奉公に出て働いていました。ただし、歳三は農民はもちろんのこと、商人になることも心から望んでいたわけではありません。
歳三には少年の頃から「われ、将来武人となりて、名を天下に挙げん」(『子孫が語る土方歳三』)という夢がありました。身分制度の最高位にあるのは武士であり、世の中というものはしょせん武士が動かしているのだと、早くから悟っていたのです。
しかし、近藤勇が16歳のときにひとまず武士の身分を得たのとは対照的に、歳三にはそうしたチャンスはなかなか訪れませんでした。商家勤めは20歳を過ぎても続けられましたから、もう無理かとその間に思ったことも一度や二度ではないでしょう。
結局、23歳の頃に商家を辞め、25歳のときに剣術を志して天然理心流に入門した歳三ですが、身分はもとの農民のままでした。若先生の勇が一応は武士として両刀を腰に帯びているのに対し、歳三は同じ剣術を修行している立場であるのに、腰に大刀を差すことは幕府の法制上許されることがなかったのです。
そんな鬱屈した思いでいたであろう歳三に、念願の機会がようやく訪れたのは、文久3年(1863)1月のことでした。
幕府が身分にこだわらずに有志を募集し、浪士組と称する集団を組織するというのです。当面の任務として、近く京都に上ることになっている将軍徳川家茂の身辺を、現地で警護することが決まりました。
この知らせを、歳三は多摩の自宅で聞きました。弾む気持ちを、歳三は小野路村の小島鹿之助に年賀状で伝えています。
二、三日前に江戸から知らせてきたところによると、文武両道の者は百五十石から二百石、一方だけの者は五十石で召し抱えるというのですが、いかが思われますか。(略)日野の井上源三郎に届いた知らせでは、御上洛のお供をすると三十俵二人扶持を下され、江戸に帰ったあとに改めて禄高が伝えられるとのことです(1月10日頃・土方歳三書簡・意訳)
与えられる手当の額は情報の錯綜があったのか正確ではありませんでしたが、チャンスが到来して気分が高揚する歳三は、手紙の末尾に、「まずはお年玉として申し上げます」と記しました。お年玉、すなわち新年を祝う贈り物としてこの話を伝えるというのですから、歳三の歓喜のほどがうかがえるでしょう。
このあと2月に正式に浪士組は組織され、歳三は近藤らとともに参加します。希望者はほぼ無条件で加盟が認められるという、幕末の動乱期ならではの幸運が後押しした形で、歳三は念願の武士になることができました。
生まれて初めて大小2本の刀を帯びた歳三は、文久3年(1863)2月8日、浪士組の一員として勇躍江戸を出発したのでした。
新選組の幕臣取り立て
近藤勇と土方歳三が武士になった時期について、以上に述べてきました。
しかし、幕府の浪士組が庄内浪士清河八郎の陰謀により、京都到着早々に江戸に帰ることになるという突発的な事件が起こります。これに反対する近藤、土方ら20余人が、浪士組から脱退して京都に残留しました。
このとき彼ら残留浪士の身柄を、京都守護職をつとめる会津藩主松平容保が預かることになったため、近藤、土方らは引き続き武士の身分を保つことができました。ただし、その身分は会津藩士になったわけではなく、浪士としての臨時雇用に過ぎませんでしたから、状況によっては解雇される可能性もある不安定な立場といわざるをえませんでした。
新選組という隊名を与えられ、京都の治安維持のために尽くした彼らに、朗報が届いたのはそれから4年後のこと。慶応3年(1867)6月、新選組総員が幕臣に取り立てられることになったのです。
以後は会津藩お預かりという立場を離れ、局長近藤が禄高三百俵の旗本、副長土方は七十俵五人扶持、副長助勤の沖田総司らは七十俵三人扶持の御家人という格式で、幕府直参の武士となりました。これらは待遇としてはさほど上等のものではありませんでしたが、武士にとって幕臣というのは、何よりも名誉ある肩書きです。近藤、土方は今度こそ、臨時雇用ではない正規雇用で、しかも最高位の武士の立場を獲得することができたのでした。
もっとも、このころになると近藤も土方も、かつてのように身分にこだわることはなくなっていました。幕末の動乱のなかにあっては、もはや身分の高低にさほどの意味はなく、それよりも人はどう生きるべきかということこそが重要なのだと悟るようになっていたのです。
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第10回「西郷隆盛の銅像の真実を探る!」
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