2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では前半と後半で主人公が替わりますが、その後半でクローズアップされるのが田畑政治(たばたまさじ)です。田畑は日本の水泳界を世界レベルにした指導者として有名ですが、その後は日本オリンピック委員会の会長にも就任しており、日本のオリンピックの歴史を語るには欠かせない人物といえます。
今回は、田畑の生い立ちや水泳教育、オリンピックへの熱意と働きかけについてご紹介します。
生い立ちから田畑の人物像を知る
オリンピックの東京開催に尽力した田畑とはどのような人物だったのでしょうか。その生い立ちや人物像を見ていきましょう。
幼少時代の田畑について
田畑は明治31年(1898)12月1日、静岡県浜松市の造り酒屋である八百庄商店で生まれました。生家が資産家だったため長期の休みには別荘で暮らすなど、不自由ないセレブ生活を送っていたようです。
水泳が好きだった田畑は別荘近くの浜名湾で泳ぐこともあり、地元の水泳クラブ、遠州学友会水泳部ではトップを争うほどのエースでした。彼の水泳の才能は、幼少期から既に発揮されていたのです。
エリートコースを進んだ
浜松中学校を卒業した田畑は、第一高等学校(東京大学教養学部、千葉大学医学部・薬学部の前身)に進学し、休みを利用しながら浜名湾での水泳指導を行いました。その後、東京帝国大学(東京大学)に進学。卒業後の大正13年(1924)には朝日新聞社に入社しています。
ここでは編集局政治部に配属されたため、有名な政治家にも顔が知られる存在になりました。記者として精力的に仕事をこなしていた彼は、戦後首相となった政治家・鳩山一郎にも気に入られたようで、政治経済部長等を歴任した後は常務に就任しています。このような人脈は水泳競技の援助金を得るために活かされ、巡り巡ってオリンピック開催に一役買うことになったのです。
水泳教育に取り組んだ彼の熱意
田畑の水泳教育に対する熱意は相当なものでした。そこまでの情熱を維持できた裏には、幼少期の田畑の事情が絡んでいたようです。
競技者としての道を断念
田畑は幼い頃から病弱で、30歳まで生きられるかどうかわからないと医師に言われていました。実際、田畑の祖父や父は結核で早くに亡くなっています。それでも水泳が好きで得意だった田畑は泳ぐことをやめませんでしたが、浜松中学校時代に盲腸炎と大腸カタルを併発し、ついにドクターストップがかかってしまいます。泳ぐと死ぬと言われたら、もう泳ぐことはできません。これにより水泳競技者の道を諦めた田畑は、指導者としての道を目指すことになったのです。
指導者としてNo1を目指した
指導者としての道をスタートさせた田畑は、浜名湾を日本一の水泳王国にしようと、浜名湾遊泳協会を設立し、大規模な選手育成をスタート。浜名湾遊泳協会が日本一であることを証明するため、有望選手を集めて浜名湾での全国大会を開催した田畑でしたが、ここでは大阪の強豪・茨木中学校に優勝を許してしまいました。しかしその2年後、ついに念願の全国制覇を果たしたのです。
オリンピック第一主義を掲げる
指導者としての能力を発揮した田畑は、やがて「オリンピック第一主義」を掲げるようになります。これが日本水泳を世界へと導いたのです。
「大日本水上競技連盟」で理事に
海外進出に力を入れるようになった日本水泳界は、大日本水上競技連盟を設立しました。田畑は理事として中心に立ち、「オリンピック第一主義」という目標のもと昭和3年(1928)アムステルダムオリンピックを目指すこととなります。
田畑は水泳競技を強化するため、援助が得られるよう政界に働きかけました。鳩山一郎を通して大蔵大臣・高橋是清から補助金の約束を取り付けるなど、人脈を大いに活かしたのです。これによりアムステルダムオリンピックでは選手10人の派遣が実現しました。
オリンピックで日本代表監督に就任
その後、田畑はオリンピック日本代表監督に就任し輝かしい成績を残します。昭和7年(1932)ロサンゼルスオリンピックでは事前にアメリカ代表チームを招待してこちらの実力を見せつけ、その勢いのまま金メダル5個、銀メダル5個、銅メダル2個を獲得、水泳大国日本を世界中へアピールすることに成功しました。
昭和11年(1936)ベルリンオリンピックでも、金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル5個と好成績を残し、日本の地位を確立していったのです。
東京五輪招致の夢と苦難の道
代表監督として結果を出した田畑は、東京オリンピック開催に向けて尽力することとなります。しかし、そこには多くの苦難が待ち受けていました。
東京オリンピック招致の夢
紀元二千六百年記念行事としてオリンピック招致を決定した東京都は、欧州の公使たちや招致委員会などの働きもあって招致に成功します。ところが、日中戦争が問題となり、結局オリンピック開催は夢となってしまいました。代わりに開催地として選ばれたのはヘルシンキでしたが、ここでも第二次世界大戦の影響でオリンピック中止が余儀なくされます。
この頃の日本は、害をなすといった理由で各種スポーツ団体が解散に追い込まれていました。しかし、田畑は戦後の昭和20年(1945)に「日本水泳連盟」として復活させ理事長に就任します。翌年には日本体育協会の常任理事にも就き、再度水泳大国日本を目指したのです。
戦後初の昭和23年(1948)ロンドンオリンピックではイギリスから参加を拒否され出場を断念しましたが、田畑の働きかけにより日本水泳連盟をはじめとした各競技協会が国際連盟に復帰します。田畑は昭和27年(1952)朝日新聞を退社すると日本水泳連盟とオリンピックに専念し、日本水泳連盟の会長に辞任した後は東京オリンピック招致を目指すことになりました。
夢を叶えるまでの苦難の道のり
田畑と東京オリンピック招致委員会は、昭和35年(1960)の開催国としても立候補しながら、昭和39年(1964)開催のオリンピック招致を大きくアピールしました。東京以外にデトロイト、ウィーン、ブリュッセルが立候補していましたが、一度も実現していないアジア開催という点で東京が後押しされ、ついに念願の開催権を得たのです。
開催が決定すると、田畑は選手団長の席を譲り、自分は東京オリンピックの組織委員会の事務総長として招致活動に奔走しました。ところがオリンピック大臣である川島正次郎と対立したこともあり、事務総長や東京オリンピック選手強化対策本部長の座を失ってしまいます。
その後の田畑は、日本水泳連盟の改革に乗り出しました。そして昭和40年(1965)には日本体育協会理事に、翌年には札幌冬季オリンピックの組織委員会顧問にも就任し、オリンピック運営への復帰を果たしたのです。札幌大会が大成功を収めたことにより、日本オリンピック委員会の会長にも就任しています。
オリンピック招致への強い思い
日本水泳の発展と東京オリンピック招致に尽力した田畑は、競技者としての道を絶たれた後も指導者として大いに活躍しました。晩年の彼はパーキンソン病を患っており、昭和57年(1982)には車いす生活をしていたといいます。そして昭和59年(1984)開催のロサンゼルスオリンピックをその目に焼き付けた2週間後、彼は人生に幕を下ろしました。まさにオリンピックにかけた一生といえます。
田畑に負けないほどの情熱によって、日本は再び2020年に東京オリンピックを開催することになりました。天国にいる田畑もきっと喜んでいることでしょう。2020年東京オリンピックではどんなドラマが生まれるのか……今から楽しみですね。
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