幕末に活躍した人物はたくさんいますが、その中でも人気がある人物として名前が挙がるのが新選組の土方歳三です。最後まで武士としての信念を貫いた男気ある生き様は、今でも多くの人を魅了してやみません。しかし、そんな彼には意外な一面がありました。
今回は、土方歳三のロマンチックさが垣間見える発句(ほっく)集について解説します。
“鬼の副長”土方の知られざる一面
「鬼の副長」と恐れられた土方歳三でしたが、意外にも「発句(俳句)」を楽しむ風流な一面を持っていました。
発句が趣味だった!
歳三の実家は薬業を営むほど裕福な農家で、連句をたしなむ風流な家系だったようです。祖父は三月亭石巴(みつきていせきは)という俳号をもつ俳人で、義理の兄・佐藤彦五郎も俳句を詠む趣味があり、春日庵盛車(かすがもりあんせい)という雅号をもっています。剣の道を突き進んでいた歳三は周囲と連句する機会は多くなかったようですが、このような家庭環境もあって自然と発句が趣味になったといえそうです。幼少期は「バラガキ」と呼ばれる乱暴者だった歳三ですが、正反対の顔がありました。
この趣味は一部の人間をのぞき新選組隊士には知られていなかったようで、「副長の穴籠り」と恐れられていました。新選組副長が一人静かに部屋に籠るなんて、どんな怖い襲撃や粛清を計画しているのだろうとヒヤヒヤしたようです。まさか発句を楽しんでいるとは、夢にも思わなかったのでしょう。
モテてモテて困っていた
周知のことかもしれませんが、歳三はモテモテの人生を送っていました。現代人の感覚からしてもイケメンですから、当時の女性たちが熱視線を送っていたのもうなずけますよね。
元治元年(1864)、歳三は自分を支援してくれている小島鹿之助に小冊子を送ります。「婦人恋冊」という送り状のついたこの冊子は、女性からの恋文を一つにまとめたものでした。前年には自分を慕う花街の女性たちを手紙で紹介していたので、この恋文集が「昨年言ったことは本当だ」という証拠になっていたようです。 島原・祇園・北野など多くの花街でモテていた歳三ですが、北新地にいたっては、その数が多すぎて書きつくせなかったようです。モテすぎて困る……、まさに歳三ならではの悩みだったのでしょう。
土方歳三の発句集について
将軍護衛の浪士組に志願するため近藤勇や沖田総司らと京に向かうことになった歳三は、今まで書きとめた句を「発句集」として一つにまとめました。
「豊玉発句集」とは
歳三が書きとめた合計41句は「豊玉(ほうぎょく)発句集」として残されています。タイトルにある豊玉は彼の俳号で、「発句」はこの当時の俳句を示す言葉です。
現代でも馴染み深い「俳句」という言葉は大正時代に始まったもので、江戸時代には「発句」「俳諧」といわれていました。連歌の冒頭「5・7・5」の部分を「発端の句」という意味で発句と呼んでいたようです。
創作作品でも話題に!
歳三は小説やゲームなど多くの創作作品でモチーフにされていますが、その人生や人物像だけでなく、発句も話題になっています。司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」では、沖田総司から「豊玉先生」とからかわれるシーンが登場します。著者である司馬は歳三の発句を下手だと評価しているため、このようなセリフに反映されたのかもしれません。
歳三の発句は分かりやすくストレートなものばかりで、新選組副長としての残虐なイメージとはかけ離れたものに感じられます。このようなギャップも多くの人の心を捉えているのでしょう。
土方歳三資料館で見られる!
京に向かうにあたり実家に残された「豊玉発句集」ですが、現在でも東京都日野市にある「土方歳三資料館」で見ることができます。当時の息吹が感じられる直筆資料は、ファンならずとも一見の価値アリ。ちなみに、かなり達筆だといわれています。
土方歳三の俳句を読もう
「豊玉」こと土方歳三の発句にはどんなものがあるのでしょうか。残された41句の中からいくつかご紹介します。
有名な梅の句
「梅の花 一輪咲いても 梅は梅」
歳三の発句は専門家から「ルールがなっていない下手な句」と評価されることがあるようです。しかし、逆にいえばストレートで馴染みやすいともいえるでしょう。
この句については、「通常ならたくさん咲く梅が一輪咲いている。それでも梅にはかわらない」と考えられそうです。
この句が詠まれた年、歳三は京に向かいました。自然豊かな多摩の風景をそのまま詠んだとも考えられますが、もしかすると揺るぎない信念をその梅に重ねたのかもしれません。
恋を呼んだ句
「知れば迷い 知らねば迷わぬ 恋のみち」
こちらは恋の句です。「恋は一度知ってしまうと迷いが生じる。もし知らなければこんなに迷いはしなかったのに」といった意味でしょう。
女性にモテすぎて困っていた歳三も恋の虜になることがありました。真偽のほどは定かではありませんが、17歳のころ奉公先の年上女中を妊娠させ、結婚を迫られたという説があります。また、お琴という美人で器量もいい許嫁がいましたが、後に婚約を解消、京都の愛妾が子供を身ごもったといわれます。これだけでも歳三が恋多き男だったことがわかりますね。
ちなみに「豊玉発句集」の中でこの句には丸が付けられているのですが、これは削除の意味で、歳三が自らボツにしたと言われています。これから京へ向かおうという時に恋の句なんて読んでいる場合じゃない!と当時の歳三は思ったのかもしれませんね。
月に関連する句
「水の北 山の南や 春の月」
歳三は春と月を好んだといわれ、月に関する句がいくつかあります。この句は「川の北側と山の南側の風景の中にのどかな春の月を見つけた」と麗らかな春の訪れを喜んでいると考えられます。
創作物の影響もあり、共に壬生浪士(後の新選組)の副長だった山南敬助を偲んだ句ではないかというロマンチックな見方もあるようですが、句集自体が上洛以前のものとされるため、山南との関係性は低そうです。しかし、ファンとしてはさまざまな想像をかき立てられる一句かもしれませんね。
イケメンすぎる副長
土方歳三が発句を趣味にしていたのは驚きですが、恋多き人物だったことを考えれば、意外と似合っているのかもしれません。思わず親近感を覚えてしまうストレートな心情あふれる句は、鬼の副長と呼ばれた男のロマンチックな一面を私たちに教えてくれるのです。
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