【大阪の製薬業の祖のひとり】初代・塩野義三郎の功績を追う!

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【大阪の製薬業の祖のひとり】初代・塩野義三郎の功績を追う!

2018年は明治元年から150年となる節目の年。これを記念し、明治時代に活躍した起業家たちを紹介する連載「明治の企業家列伝」。最終回となる第5回は、シオノギ製薬の創業者である初代・塩野義三郎です。


商工業のさかんな都市として知られる大阪ですが、製薬もそのひとつだということをご存知でしょうか。江戸時代から和漢問わず薬種問屋が大阪の道修町というところに集まっていました。近世に形成された薬の町は、近代に入ると政府の西洋医学導入に大きな役割を果たすことになります。今回はそのなかでも、頭痛薬「セデス」などで知られるシオノギ製薬の創業者である、初代・塩野義三郎の生涯を追ってゆきます。

薬の町・大阪で生まれる

現在の塩野義製薬本社

大阪には、藤沢薬品工業(現在のアステラス製薬)、武田薬品工業、田辺製薬、森下仁丹、大日本除虫菊(金鳥)など、日本を代表する製薬会社の本社が集積しています。シオノギ製薬もその一つ。それでは、シオノギ製薬はどのような人が創業した会社なのでしょうか。

大阪に医療や医薬に関する基盤があったのは、緒方洪庵が江戸時代の1838年(天保9年)に「適塾(てきじゅく)」をひらいたのがきっかけだといえます。洪庵は自分の技術を若く志を持つものたちに伝えてゆきました。適塾に通っていた人物には福沢諭吉橋本左内大村益次郎らがいます。

しかし、洪庵の教えていたものは、あくまで日本の伝統的な医療でした。それが、明治になるとそのほかの分野と同じように医療の分野でも近代化することが望まれるようになります。それは政府の方針でもあり、世界で最先端の技術を日本にも導入したいという思いからでした。この動きにいくつかの薬種問屋などが反応し、日本の医薬品の近代化に寄与すべく、研究開発や生産体制の確立を目指すことになります。

1854年(嘉永7年)4月14日、塩野義三郎は薬種問屋の集まる大阪道修町で、薬種商(後の塩野香料)を営んでいた二代目塩野吉兵衛の三男として生まれました。兄弟のうち次男は幼いうちに亡くなっています。1870年(明治3年)、二代目吉兵衛は長男の豊太郎に吉兵衛を襲名させ、義三郎は三代目吉兵衛のもとで薬種扱いについて学ぶ日々を送っていました。その後、1874年(明治7)に義三郎は分家し、一戸を構えることとなります。ほかの商店の丁稚などとして商売を学んだ経営者が多い中で、義三郎はいくらか恵まれていたのかもしれません。

義三郎は、1878年(明治11年)3月17日、24歳の誕生日を機に独立し、大阪の道修町3丁目12番地に薬種問屋「塩野義三郎商店」を創業しました。これが「塩野義製薬」の歴史のはじまりです。創業当時は主に和漢薬を扱う店として商売をしていました。その後、開業8年後に当たる1886年(明治19年)になると、政府主導で西洋医学が広く普及し始めたのを商機と考え、洋薬の輸入販売を開始します。ほとんどの西洋製の医薬品が神戸や横浜にある外国商館経由で流通していた当時、貿易実務に通じていない薬種問屋は外国貿易商の言い値で商品を買い取るしかありませんでした。そのため、西洋の薬には法外な値段がつけられ、驚くほど高値なものだったのです。

しかし、薬が高価であるという理由だけで日本の医療の発展を遅らせるわけには行けません。そこで義三郎が考えたのが、英語に堪能な実務経験者を招き入れること。こうすれば海外と上手に交渉して直接医薬品を輸入し、庶民でも手の届く価格での販売を実現することができます。この義三郎のやり方をまねて、他社も直輸入を始めるようになりました。すると、義三郎は次の段階として、他社との差別化を図るべく、自社での医薬品製造をめざすことにしました。

2人の息子が支えた塩野義の草創期

義三郎は1880年(明治13年)に結婚し、翌年には長男・正太郎が、1883年(明治16年)には次男・長次郎が生まれました。この二人の子供たちがシオノギの発展に大きく寄与してゆくこととなります。

長男・正太郎は阪高商(現・大阪市立大学)を卒業後に兵役を終えると、1906年(明治39年)から営業の仕事を担うようになりました。のちに、丁稚や住み込みの制度を廃止し、アメリカ的な業務管理や統計機、あるいは計算事務機械を導入するなど、経営の近代化に大きな役割を果たしました。

一方で次男・長次郎は東京帝国大学医薬部薬学科に進学、卒業を機に大阪に帰ってきて製薬事業の分野に取り組むようになります。これがシオノギの本格的な製薬研究の端緒となりました。そんな折、塩野義三郎商店の管理薬剤師が府立大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)の小児科医長・高洲謙一郎から、ドイツの医薬書に制酸剤の処方が書かれていることを聞いてきました。長次郎はそのことを知って高洲の指導を受けることにします。そして研究の末に制酸剤の試験製造を開始、やがて製品化に成功します。この健胃制酸剤「アンタチヂン」が、塩野義三郎商店で初めて自社開発した、記念すべき第一号の新薬となりました。現在さかんになっている「産学協同」を早い時期に行っていたことも、シオノギの先見性を表しているといえるでしょう。

相次ぐ製薬の成功で軌道に

「アンタチヂン」の製品化に成功したことで、義三郎は新薬製造を事業として本格的に発展させることを志しました。そのために大阪府西成郡(現在の大阪市福島区)に製薬工場「塩野製薬所」を新たに建設、製薬企業として新たなスタートを切ったのです。

長次郎が所長となった塩野義製薬所は、1910年(明治43年)に本格稼働を始めました。しかし、当時は原料薬品を外国産に頼っている状態であったために輸入薬品に圧倒されて苦戦し、経営的はうまくいっていませんでした。そのため長次郎は、塩野製薬所を事業の採算をとる場所ではなく、将来の医薬の発展に貢献する場というように考えを改めます。そして、当時ドイツ留学から帰国したばかりの近藤平三郎薬学博士を顧問として招くことにしました。こうした長次郎の行いが許されていた背景には、義三郎の親心や、近代医療の発展への自己犠牲の精神があったといえるのではないでしょうか、また、息子である長三郎の才能を強く信じていたともいえるでしょう。1921年(大正10年)には浦江試験所、1922年(大正11年)には杭瀬工場を相次いで建設しました。

やがて、近藤博士の紹介で製品化したヂギタリス製剤は、1912年(大正元年)に心臓新薬「ヂギタミン」として発売されます。ただ、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が起こったことで外国医薬品の輸入が途絶え、医薬品業界は苦労を強いられることになってしまいました。しかし自社製品「ヂギタミン」を自社で製造・販売するシオノギはその限りではなく、国産医薬品も積極的に取り扱っていたために、戦時中には多くの人々を救うことができたのです。

販売と製薬を統合し株式会社化

塩野義製薬 医薬研究センター SPRC4

第一次世界大戦後の1919年(大正8年)、シオノギはさらなる発展を目指して、長男の正太郎が主に経営に携わっていた薬種問屋・塩野義三郎商店と、次男の長次郎が力を入れていた製薬事業・塩野製薬所を合併し、「株式会社塩野義商店」を設立しました。さらに、1943年には、事業内容を製薬中心にすること明らかにし、現在と同じ「塩野義製薬株式会社」へと社名を変更します。

このように、塩野義製薬は義三郎と長男・正太郎と次男・長次郎それぞれの個性と才能が奏功して、製薬企業としての発展を遂げたのです。もっとも1920年(大正8年)、60歳を過ぎた義三郎は経営の一線から退くことを決め、一取締役の立場となることを決めました。名前も義三郎から義一と改め、正太郎が義三郎の名を継ぎ、二代目・塩野義三郎となることになったのです。こうして息子たちの成長と活躍、あるいは苦労を見守ることになった義一でしたが、1931年(昭和6年)5月、製薬部門を担っていた長次郎が肺炎で急逝してしまいます。その悲しみはいかばかりだったでしょうか。そして同年12月義一(初代義三郎)も池田市の隠居先にて、大阪で医薬品の製造・販売にかけた人生を終えました。享年78歳。昔ながらの薬種問屋から近代的な製薬メーカーへと成長させたその功績は、いまも日本の医薬史に燦然と光り輝いているのです。

「分銅」のマークに受け継ぐ「正確の追求」

シオノギの社章は江戸時代に使用された分銅に由来しています

塩野義製薬の有名な医薬品である「セデス」や「ポポンS」は戦後に開発されたものです。ほかの多くの企業と同じく、シオノギも第二次世界大戦によって海外事業所をや主力工場・設備を失いました。そのため出荷できる状態ではありませんでしたが、二代目・義三郎は従業員を集め、「今はいたずらに泣き悲しむ時ではない。これからは世界が相手になる。われわれは何事も国際水準を目あてに精進努力しよう」と語りました。もっとも会社はインフレや物価高騰などの混乱の中で破産同然となっていました。

しかし、努力の末1939年に医療用医薬品として始まった鎮静剤「セデス」を発売。「痛くなったらすぐセデス」のキャッチコピーとともに、今でも多くの人気を集めています。なお、セデスとは、鎮痛を意味する英語(sedative)を元に、読みやすく、印象に残る名称ということで回文スペルの製品名「SEDES」と名付けられました。

1953年(昭和28年)には、当時人気が上昇中で、シオノギにおいても最重点品目なりつつあったビタミン剤の分野において総合ビタミン剤「ポポンS」を発売しました。以後、改良を重ねて今日に至っています。「ポポンS」の名前の由来は、ぽぽん(活力や意欲が非常に盛んなことを意味する旺盛擬声語)+SHIONOGIのSです。

ところで、現在も使われているシオノギの社章は、薬を天秤で量る際に使用する「分銅」に由来しています。分銅は、「正確」「正直」「信頼」の象徴であり、常に正確を追求するシオノギの願いを表しています。現在、世間には無数の医薬品が流通し、安全な商品をドラッグストアなどで簡単に手に入れることができます。それを可能にしたのが大阪の薬種業者たちであり、塩野義三郎の功績は今後も語り継がれていくでしょう。

<参考サイト>
シオノギ歴史館(シオノギ製薬)

 

~連載「明治の企業家列伝」~
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