チャンネル銀河で2018年9月17日(月)より好評放送中の大河ドラマ「八重の桜」。これを記念し、同ドラマの時代考証を担当した歴史作家・山村竜也先生による全4回の新連載「時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』」。
第3回のテーマは、会津戦争で娘子軍隊長として奮戦した薙刀の名手・中野竹子です。
江戸育ちの会津娘
会津戦争の激戦のなかで、山本八重と同様に敢然と敵と戦い、歴史にその名を残した女性がいました。娘子軍隊長として知られる中野竹子です。
竹子というのは後世に呼ばれるようになった名で、当時の名はタケ、もしくは竹といいました。江戸時代においては、女性の名に「子」をつけるのは公家(貴族)に限られていて、「子」が公家以外にも広まるのは明治維新後のことでした。
本稿では中野竹子のままで書き進めますが、本当は竹子をはじめ、当時の女性には「子」はついていなかったことを知っておいていただきたいと思います。
さて竹子ですが、生まれは弘化4年(1847)3月。会津藩士・中野平内の長女として江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷で誕生しました。中野家は江戸定詰めの納戸掛(勘定方)をつとめる家だったので、竹子は会津人とはいっても、江戸で生まれたまま故郷を知らずに成長したのです。
だから、言葉も会津なまりはあまりなかったと想像されます。「八重の桜」での八重(綾瀬はるかさん)と竹子(黒木メイサさん)は、そのあたりの対比が上手に描かれていますね。
子供のころから竹子は、頭脳明晰で容姿艶麗、藩邸内の女子のなかで群を抜いていたといいます。特に容姿が美しかったことについては、のちにともに戦うことになる依田菊子もこう語り残しています。
「この竹子様はお美しい上に武芸の方も人並勝れ、読み書きも能く出来られた上に和歌にも達して居られたので、藩中は勿論他藩へも其名の聞えた評判のお方であられましてーー」(「会津婦女隊従軍の思ひ出」)
写真が残っていないのが残念ですが、周囲の誰もが認める美人だったのでしょう。また武芸と学問を江戸詰めの藩士・赤岡大助に学び、文武両道にたけた竹子の才能は花開いていったのでした。
そんな才色兼備の竹子に、やがて縁談もほうぼうから来るようになりましたが、本人はなぜか乗り気ではなく、すべて断ってしまいます。理由は、竹子の妹の優子がのちに語ったところによると、こういうことでした。
「姉は一風変わったいわば男勝りの様な性質なので、天下の形勢だとか、奸賊跋扈だとか、あるいは君家の雪冤だとか、男子の様な義憤が姉の脳裡を支配して居ったと見え、縁談を非常に嫌ひーー」(『会津戊辰戦争』)
普通の女性のように男性に嫁ぎ、家に入っておとなしくしている人生が、竹子には耐えられなかったのでしょう。
初めての会津入り
慶応4年(1868)3月、22歳になった竹子は、生まれて初めて会津の地を踏むことになります。旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が始まり、江戸詰めの会津藩士は全員、国許の会津に帰ることになったのです。
とはいっても、江戸定詰めの中野家は会津に家がなかったため、城下にある親戚の田母神家の屋敷の一角を借りて住みました。竹子だけは、かつての師・赤岡大助が城下西北の坂下(ばんげ)で剣術道場を開いていたので、そこに身を寄せました。
赤岡家で竹子は、城下の子供たちを集めて読み書きを教え、娘たちには薙刀を教授します。無骨な赤岡先生のところに、江戸から若くて美人の女先生がやってきたのですから、坂下の町は一気に華やいだことでしょう。
しかし、そんな日々はわずか5か月ほどで終わりを告げます。戊辰戦争の舞台は東北地方に移り、8月、新政府軍がついに会津に侵攻してきたのでした。
竹子も城下の田母神家に戻り、家族を守って戦う決意を固めます。女性ですので藩の正式な兵として認められることはありませんでしたが、いざというときには男にも劣らない戦いぶりをみせる覚悟はできていました。
23日未明、新政府軍が城下に迫ったことを知らせる警鐘が鳴り響きました。竹子は黒髪をばっさりと切り落とし、戦いやすくした上で、袴をはいて白布でたすきをし、鉢巻きをして薙刀を携え、母・孝子、妹・優子とともに屋敷から飛び出したのです。
女性たちは鶴ヶ城にこもって照姫(藩主松平容保の姉)を守るようにとの達しであったので、竹子らも入城しようとしましたが、城門が固く閉ざされていて入ることができません。それで近くにいた藩兵に照姫の安否を尋ねると、「姫はとっくに坂下へ立ち退かれた」といいます。
ならば坂下までは距離があるが、姫のあとを追うしかないと、竹子らは入城をあきらめて坂下へ向かったのです。途中の路上で、依田まき子、菊子姉妹、岡村すま子という見知った女性たちに出会いました。みな竹子らと同じように髪を切り、薙刀を掻き込んだ勇ましい姿で、彼女らも同行して坂下へ向かうことになりました。
涙橋に響いた一発の銃声
小雨が降るなか、苦労して坂下までたどり着いた竹子ら6人でしたが、そこには照姫の姿はありませんでした。照姫が坂下に逃れたというのは誤った情報で、実際の照姫は鶴ヶ城内にいたのです。そのことを知って途方に暮れる竹子らでした。
幸い付近には、越後口から引き揚げてきた会津藩兵がいて、竹子らはその隊長に同行させてほしいと頼み込みました。照姫がいないいま、方向転換して城下に向かって進撃するしか道はなかったのです。
隊長は、女性を従軍させるわけにはいかないといいますが、簡単に引き下がる竹子ではありません。とりあえずこの夜は坂下の法界寺で一泊し、翌日、高久に布陣していた会津藩家老・萱野権兵衛のところまでおもむき、直談判しました。
やむなく萱野は、付近に布陣していた古屋佐久左衛門率いる幕府陸軍の衝鋒隊に加わることを認めます。竹子らはよろこびあい、翌25日と決まった進軍を待ちわびるのでした。
夜が明けて、運命の8月25日。竹子は早朝に法界寺を出発しました。母・孝子(44歳)、妹・優子(16歳)、依田まき子(35歳)、同菊子(18歳)、岡村すま子(30歳位)があとに続きます。後世に娘子軍と呼ばれた一団は、確かなところではこの6人だけでした。
当時はもちろん名称などなく、あくまでも維新後にそう呼ばれるようになったものです。したがって名称は固定しているわけではなく、娘子隊、婦女隊などと呼ばれることもあります。
竹子ら6人が加わった衝鋒隊は、高久から越後街道を進軍し、新政府軍を突破して鶴ヶ城に向かおうとしていました。ただし途中の柳橋(別名・涙橋)は要衝であったため、敵も堅固な守備体制をとっていました。ここが激戦の地となるのです。
はたして午前9時頃、柳橋に至った衝鋒隊と竹子らは、長州、大垣の両藩兵で構成された新政府軍と激突します。戦いは銃撃戦から、やがて白兵戦となり、竹子らも薙刀をふるって猛然と戦いました。
戦闘中、敵の隊長とおぼしき者が、竹子らが女であることに気づき、「討たずに生け捕れ」と叫びます。すると敵兵は色めきたって竹子らのもとに群がり、周囲を幾重にも取り囲むのでした。
竹子らは、「生け捕らるるな、恥辱を受くるな」と大声で互いにいいあい、必死になって薙刀をふるいました。特に竹子は、娘子軍のリーダーとして誰よりも勇ましく、敵の矢面に立って奮戦していました。
その竹子めがけて、一発の銃声が鳴り響きます。弾は竹子の胸に命中し、その場に竹子の身体は崩れ落ちました。ただし依田菊子の証言では、「ついに額に弾丸を受けて斃れました」とあるので、こちらが真実であったかもしれません。
いずれにしても竹子はほぼ即死状態だったようです。これを見た優子は、「お姉様の御首級を敵に渡さぬように、私が介錯しませう」といって駆け寄り、母と協力して竹子の首を落としたといいます。
竹子の享年は22。この日、戦場におもむく際に、竹子は辞世の歌を書いた短冊を薙刀の柄にくくりつけていました。
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ我が身ながらも」
男たちの勇猛な心にくらべれば、ものの数にも入らない私だけれどーー。そう謙遜しながらも、自分なりにがんばったということを竹子はいいたかったのでしょう。実際の男よりも男らしく、凜々しく生きた竹子の生涯でした。
竹子は坂下の法界寺に葬られ、現在も同寺に墓があります。会津城下からは少し距離がありますが、一度お参りしてみてはいかがでしょうか。
大河ドラマ「八重の桜」チャンネル銀河で放送中!
放送日:月-金 朝8:00~ ※リピート放送:月-金 深夜1:15~
番組ページ:https://ch-ginga.jp/feature/yaenosakura/
<連載:時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』>
第1回「会津に咲いた一輪の桜・山本八重」
第2回「山本八重と15歳の白虎隊士」
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