第4回「会津復興の光・新島八重の明治」【時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』】

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大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK

チャンネル銀河で2018年9月17日(月)より好評放送中の大河ドラマ「八重の桜」。これを記念し、同ドラマの時代考証を担当した歴史作家・山村竜也先生による全4回の連載「時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』」

最終回となる第4回のテーマは、「明治維新後の八重」です。

新島襄との出会い

悲惨な会津戦争が終わり、山本八重も明治の世に生きることになりました。憎い敵がつくった新時代ではありますが、戦争を生き残った者の役目として、戦死した人々の分まで生き抜かなければなりません。
そう決意した八重のもとに、いい知らせが舞い込みました。京都で戦死したと思われていた兄・山本覚馬が生きていて、新政府に京都府顧問として迎えられていたというのです。

明治4年(1871)9月、八重は母の佐久、姪のみねとともに京都に向かい、覚馬との再会をよろこびあいました。覚馬は失明し、足も不自由になっていましたが、生きていてくれたことは八重にとって何よりうれしいことでした。
京都では、覚馬の推挙で八重に仕事も与えられました。それは「新英学校及女紅場」の教師というものでした。女紅場とは機織り、裁縫、料理など女子のための仕事をする場所で、八重はそれらを生徒に教えるかたわら、英学校で英語を学んだのです。

八重は英語を学びながらキリスト教を信奉するようになりました(大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK)

英語に親しむ日々のなかで、八重は次第にキリスト教を信奉するようになっていきます。明治になって禁教令は廃止されてはいましたが、まだ世間はキリスト教を好意的に思っていない時期のことでした。
そして明治8年(1875)、英語と聖書を学ぶため宣教師ゴードンの木屋町の屋敷を訪ねた八重は、そこで運命の人とめぐり逢うことになります。もと上野安中藩士の子で、アメリカに密航して西洋の学問とキリスト教を学び、1年前に帰国したばかりの新島襄でした。

ハンサムウーマン八重

アメリカ暮らしの長かった新島襄は、普通の日本人とは違った感覚を持っていたようです。あるとき京都府権大参事の槇村正直から、「あなたは妻君を、日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか」と尋ねられたことがありました。すると新島は、

「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本婦人をめとりたいと思います。しかし、亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」

と答えたといいます。つまり結婚するには日本人のほうがいいが、古いタイプの女性は苦手だというのです。これを聞いた槇村が、「それならちょうど適当な婦人がいる」といって紹介したのが、まさに八重でした。

すでに八重と新島は、顔見知りではありましたが、槇村が二人の間を取り持つことで急接近するようになります。そして明治9年(1876)1月2日、八重は宣教師デイヴィスから洗礼を受け、翌日に新島とデイヴィス邸でキリスト教による結婚式をあげました。八重は再婚で32歳、新島は34歳のときでした。

八重と襄は日本人として初めてキリスト教式の結婚式を挙げました(大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK)

結婚後、新島がアメリカの恩人ハーディー夫人にあてた手紙が残っています。そのなかで新島は八重について、このように書いています。

「彼女は見た目はハンサムではありませんが、行動がハンサムなのです」

ハンサムという言葉は日本では男性にしか用いませんが、西洋では女性に対しても使われることがありました。新島は外見が美人であることよりも、内面の美しさというものを重視していたのでしょう。

同志社女学校を設立

夫となった新島襄は、前年の11月に同志社英学校(現在の同志社大学)を京都丸太町に開校していました。キリスト教主義による大学の設立が新島の念願だったのですが、八重もこれに協力するなかで、キリスト教に基づいた女子教育への意欲を持つようになります。
それまで勤めていた女紅場を退職後、八重は自宅で女子塾を開き、明治10年(1877)4月に改めて同志社分校女紅場として発足させました。これは9月に同志社女学校と改称され、のちに同志社女子大学となって現在に至ります。

夫の事業に内助の功をなしながら、自らも女子教育という目標のために突き進んでいく。八重の行動力は、明治という新しい時代においても遺憾なく発揮されたのです。

“同志社”という名前は八重の兄・山本覚馬が名付けたと言われています(大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK)

しかし、最愛の夫と過ごす日々はそれほど長くは続きませんでした。もともと病弱であった新島は、明治23年(1890)1月23日、急性腹膜炎のために神奈川県大磯の旅館で死亡します。
看病に駆けつけた八重に抱きかかえられながら、新島は、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」といい残して息を引き取りました。まだ48歳の若さでした。

その後の八重は、同志社英学校、女学校が軌道に乗っていたこともあり、教育者という立場にとどまらず、新たな道を模索します。このあと自分は何をすべきか、自分にできることは何なのかと考え、出した答えは「看護婦」の道でした。

日本赤十字社の看護婦となる

同年の4月、八重は日本赤十字社に加盟して正社員となりました。正社員といっても正規社員という意味ではなく、正会員というのに近い言葉です。
その日本赤十字社が京都に設立した篤志看護婦人会に八重は所属し、以後力を尽くします。篤志看護婦人会というのは、皇族や華族といった上流階級の女性たちによって組織された慈善団体で、一般的に低く見られていた看護婦の地位を向上させようという狙いでつくられたものでした。

折から明治27年(1894)には、日清戦争が勃発します。八重は看護婦取締の役につき、会員40人を率いて広島陸軍予備病院に赴任し、4か月にわたって傷病兵の看護活動に明け暮れました。
さらに明治37年(1904)に勃発した日露戦争のときにも、翌年、大阪陸軍予備病院におもむき、2か月間傷病兵の看護にあたりました。負傷して苦しむ兵士を見ると、会津戦争で籠城していたときのことを思い出したでしょうが、あのときの経験が八重を看護婦の道に進ませたということもいえるでしょう。

八重は篤志看護婦としての活躍が認められ、皇族以外の女性として初めて叙勲を受けました(大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK)

このころ八重は、看護婦人会の活動と並行して、茶道に深く傾倒していました。かつて京都の女紅場で働いていたとき、裏千家十一世家元・千玄々斎の娘の千猶鹿子も茶道師範として勤務しており、その縁で明治27年に入門したものでした。
以後、八重は熱心に稽古を続け、明治31年(1898)には奥義を伝授されています。こうして女流茶人として八重が大成したことにより、それまでもっぱら男性のものであった茶道界が女性中心に変わっていったといわれています。

何をやらせても半端では終わらないところが、八重の尋常ではないところといえるでしょう。八重が没したのは、昭和7年(1932)6月14日。88歳の大往生でした。

会津戦争で敗北を喫して、大切なものを何もかも失っても、そこから力強く立ち上がり、明治という時代を生きた八重。平成の現代、災害からの復興が待たれる福島県にとっても、八重の頑張りは希望の光となっているのではないでしょうか。

大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK

 

<連載:時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』>
第1回「会津に咲いた一輪の桜・山本八重」
第2回「山本八重と15歳の白虎隊士」
第3回「涙橋に散った娘子軍隊長・中野竹子」

 

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