【今川家軍師:太原雪斎】桶狭間の戦いの明暗をわけた男の生涯

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【今川家軍師:太原雪斎】桶狭間の戦いの明暗をわけた男の生涯

日本の歴史上には、軍師として名を馳せた人物がたくさんいます。彼らは主君に尽くして暗躍した影の主役ともいえるでしょう。
戦国時代、東海の戦国大名・今川義元の軍師として活躍したのが太原雪斎(たいげんせっさい)です。彼は若いころから今川家を支え、その全盛期に貢献したことでも知られています。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場予定ですが、一体どのような人物なのでしょうか?
雪斎の生い立ちや今川家軍師としての活躍、僧侶の立場から残した功績などについてご紹介します。

幼い義元を支えた雪斎

太平記英勇伝に描かれた今川治部大輔義元像です。(東京都立図書館所蔵)

雪斎が義元に出会ったのは、まだ義元が幼い頃のことでした。
雪斎はどのように義元の信頼を得ていったのでしょうか?

善得寺で義元の教育係に

大永2年(1522)頃に、雪斎は初めて義元と出会ったとされています。当時の雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗っており、駿河の富士山麓にある善得院(現在の臨済寺)で幼い義元(幼名は芳菊丸)の教育係を務めました。雪斎は当時から秀才として将来を嘱望されており、今川家9代当主・今川氏親は今川家に仕えるよう2度も要請したといいます。
雪斎と義元は修行に励み、善得院、建仁寺、妙心寺と場所を移していきました。大永6年(1526)氏親が死去した際、義元がいたのは善得寺です。これは領国内でも不安定だった河東に、この地に影響のある庵原家の出身者である雪斎を配置したと考えられています。

家督相続に尽力し信頼を得る

天文5年(1536)今川家10代当主・氏輝が死去します。享年24歳の氏輝には嫡男がおらず、後継的立場だった次弟・彦五郎も死去したため、氏親の三男・玄広恵探と氏親の五男である義元のあいだで家督争いが起こります。
雪斎は義元の家督相続に尽力し、籠城戦で玄広恵探を自刃に追い込みました。こうして出家していた義元は僧籍を離れて11代当主に就任。雪斎を厚く信頼し、政治や軍事の最高顧問として重用することになったのです。

今川家最高顧問として活躍!

今川家の執権となった雪斎は、僧でありながら全面的に義元を補佐しました。
義元も雪斎に手厚い庇護を与え、今川家は全盛期を迎えます。

尾張の織田信秀と激突する

雪斎は氏親時代から悪化していた甲斐・武田信虎と姻戚関係をもち、甲駿同盟を結ぶなど関係改善に努めました。これにより同盟関係だった相模の北条家と関係が悪化し駿河東部を占領されてしまいますが、のちに奪還に成功しています。
そして天文15年(1546)織田信長の父・織田信秀と激突。雪斎は今川軍を指揮して三河田原城を落城させたのち、三河小豆坂で織田軍を破りました。天文18年(1549)には三河の安祥城を攻撃して織田信広を捕らえ、信秀と交渉して織田家に奪われていた人質・松平竹千代(後の徳川家康)を取り戻しています。これにより織田家の勢力は弱まり、今川家は西三河の支配権を獲得しました。

甲相駿三国同盟の締結に尽力

天文19年(1550)武田家との政略結婚で迎えられた義元の正室・定恵院が亡くなると、今川家と武田家の婚姻関係が途絶えてしまいます。そのため雪斎は、武田信玄の嫡子・義信に、義元の長女・嶺松院を正室として嫁がせ同盟関係を維持しました。
また天文23年(1554)には、甲斐・武田家、相模・北条家とともに甲相駿三国同盟を締結。これにより今川家は東側を任せられるようになり、西方面への進軍に集中できるようになりました。

僧侶としての功績

今川家の執権として活躍した雪斎ですが、僧侶としても功績を残しています。
一体どのような功績を残したのでしょうか?

京都妙心寺の住持を務める

雪斎が第35代住持となった京都・妙心寺です。

天文14年(1545)雪斎は高僧を招いて駿府に臨済寺を開き、2代目の住職に就任します。また天文19年(1550)には京都・妙心寺の35代目の住職にも就いており、僧侶としても幅広く活躍しました。
雪斎は臨済宗の僧侶(禅僧)として有名ですが、この時代は多くの寺が興され、その中でも妙心寺派が普及したようです。

今川仮名目録の制定に関わる

天文22年(1553)義元は今川家の分国法『今川仮名目録』33か条に、『仮名目録追加21条』を制定して補訂しました。雪斎はこの制定にも尽力しており、これは今川家と盟友関係だった武田家の分国法『甲州法度次第』にも影響を与えたといわれています。
領内の寺社や宗教を統制して商人を保護する商業政策を行ったり、中国の史書を印刷したりと、雪斎は僧侶の立場からも今川家の最盛期に貢献しました。

雪斎の人物像とは?

義元に尽くし今川家になくてはならない存在となった雪斎。
その人物像はどのようなものだったのか、2つエピソードをご紹介します。

諸将も認めた義元の「右腕」

義元のもとで手腕を発揮した雪斎は、黒衣の宰相ともいわれています。武田家の軍学書『甲陽軍鑑』によれば、武田家の家臣・山本勘助は「今川家は雪斎がいなくてはならない家である」と評価しており、家康も「義元は雪斎と話し合って両国経営しているので家老の威権が弱い。雪斎が亡くなったら国政は整わないだろう」と評したとされています。
雪斎は名だたる戦国武将らも認めた義元の右腕だったといえるでしょう。

家康の師匠説も!雪斎の教えとは?

幼少期は今川家の人質だった家康。雪斎に学問を教わったという説もあるようです。

信憑性は問われているものの、雪斎は織田家から今川氏のもとに取り戻した、人質時代の家康の学問・軍学の師匠だったという説があります。雪斎の教えは、義元の大名としての心得を示した『御屋形対諸宗礼之事』からうかがい知ることができます。
雪斎は、徳のある僧侶なら形式など下らないものにこだわらず尊敬するとし、禅師・上人などの号におごって堕落する高僧を非難しています。今川家を支えた雪斎は、外面にこだわらない合理主義者だったといえるでしょう。

今川家最盛期に大きく貢献した

義元から多大なる信頼を得て活躍した雪斎。彼は今川家の繁栄に尽力したものの、残念ながら桶狭間の戦いの前にこの世を去ってしまいました。一説には、もし彼が生きていれば、この戦いでの今川家の敗戦はなかっただろうといわれています。
それほどまでに今川家の最盛期に貢献した雪斎ですが、彼に頼りすぎたことが結果的に今川家の敗北につながったともいえるでしょう。

 

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