北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。最終回となる第12回は、「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名な「ウィリアム・スミス・クラーク」です。
クラーク博士は、今や北海道のシンボルとも言える人物です。クラークといえば、真っ先に思い浮かぶのが、「少年よ、大志を抱け」「ボーイズ・ビー・アンビシャス」。これは、明治のはじめ、北海道に、新しい教育の根をおろしたアメリカ人、クラークが学生に贈った言葉です。
マサチューセッツ農科大学の学長に就任
ウィリアム・スミス・クラークは、アメリカ東部マサチューセッツ州の小さな村に医者の息子として生まれました。1826年、今から170年以上も前のことです。
その頃のアメリカは、イギリスから独立して50年が経ち、新しい土地を求めてイギリスからやって来た大勢の人々によって開拓されていきました。クラーク自身もイギリス人の勤勉・努力・宗教を大切にする精神を受け継ぐとともに、アメリカ開拓者の、冒険好きで、何事にも屈しない精神力と抜群の行動力とを合わせ、育ちました。
負けず嫌いの子供だったクラークは持ち前の努力で、勉強は一番、スポーツも一番、けんかをしても一番という、活発な少年でした。
高校をトップの成績で卒業した彼は、名門といわれるアマースト大学に進み、さらに25歳の時、自然科学の中心として知られていたドイツの大学に留学しました。ここで博士号をとったクラークは、アメリカに帰ると人々の注目を集め、大変な歓迎を受け、母校アマースト大学の教授に任命されました。それもそのはず、この大学で博士号を持っていたのは、26歳のクラークただ一人だったからです。
社会的に著名な学者という地位を手に入れ、毎日充実した日々を送っていたその頃、アメリカではひとつの法律が可決されました。それは、その州が必要であれば、国の予算を使って、農業学校を建てることが出来るというものでした。
37歳になっていたクラークは、「開拓が今盛んに行われている、ここマサチューセッツにこそ農業の専門学校が必要だ」と考え、周りを説得し、ついに4年後、当時アメリカにまだ2つしかなかった農学校を、もうひとつ増やすことに成功したのです。1867年、日本では新政府が幕府を倒し、明治維新という新しい国造りにとりかかった頃でした。
マサチューセッツ農科大学と名付けられたこの学校に、学長として選ばれたクラークは、学校が始まると学生達に次のように演説しました。
「私が皆さんに望むこと、それは皆さんがこの大学を卒業した後、アメリカの全ての農場で、どんな仕事でもすぐにこなせるようになってほしい。そのために、在学中はここで学んだことを全て吸収してほしいということです」
彼は実際に授業の中で、農機具を使って作業する実地訓練という、新しい制度をとり入れました。
クラークにとって、自然は書物の上の文字だけでは表現しきれないものであり、生き生きと動いている自然こそ本物でした。そしてそれをまるで実際に見ているように話すこと、それがクラークの授業でした。このような彼の授業は学生達の反響を呼び、皆休むことなく彼の講義を受けました。また、樹木や植物についても新しい実験を次々に行い、高い評価を受けるようになりました。この評判は、海を越えて、遠い日本にも伝わることとなったのです。
札幌農学校の指導者として日本へ渡る
明治初期の日本は、鎖国という200年もの長い眠りから覚め、周りの国々の動きに驚くと同時に、なんとかそれらの国々に追いつくために、海外からたくさんの教師や技師を招きました。特に、近代技術の発展したアメリカから、その進んだ技術や制度をとり入れようと、明治政府は、北海道にアメリカ式農法をとり入れていたのです。それを提案したのは、北海道開拓長官・黒田清盛でした。
北海道の首都として新しいまちづくりが進められていた札幌は、人口が2600人程度で、中心地の大通も、樹木や雑草が生い茂る状態でした。そんな中、明治9年に将来の北海道開発の後継者や人材育成のため、東洋で最初といわれる高等農業教育機関である、札幌農学校が設立されました。この札幌農学校は、後の北海道大学のことです。その時模範とした農学校が、マサチューセッツ農科大学だったのです。
札幌農学校の指導者として黒田清盛から来日の要請を受けたクラークは、これに喜んで応じました。見知らぬ土地で、今まで考えてきた教育というものを、もう一度再現してみようと思ったのです。はじめ黒田は、クラークに2年間の期間をお願いしましたが、こちらの学校の責任者でもある彼は、2年間も学校を空ける事はできません。
「よろしい。では、他の人が2年でやることを、私は1年でやってみせます」
その力強い言葉に黒田は納得し、こうしてクラークは日本に向けて出発したのです。明治9年、クラーク49歳の決心でした。
日本へ向かう船の中で、彼は同行した人々にこれからの目標を熱く語りました。
「私が日本に伝えるのはアメリカの進んだ技術ではありません。技術を生み出すのは人間です。人間が自然と共に生きていく中から技術が生まれ、機械が発明されました。大切なのは自然と共に生きようとする精神、スピリットです。それこそが開拓者魂、フロンティア・スピリットなのです。私はそのフロンティア・スピリットを日本へ伝えにいくのです」
明治9年6月、横浜に着いたクラークは黒田清盛と会いました。黒田はクラークにこう語りました。
「わが新政府は、徳川幕府から新しく生まれ変わった政府です。我々がまず行わなければならないのは、北海道の開拓です。ここで近代農業をすすめるためには、札幌に農学校をつくらなければならないと考え、その指導者には、マサチューセッツ農科大学の学長であるあなたが最も適任だと私は考えました。ぜひ、その豊かな経験を生かして、新しい学校の生徒育成に力を尽くしていただきたい」
7月、黒田と共に札幌は着いたクラークは、札幌農学校の開校式で、第一期生24人を前にこの一言を贈りました。「ビー・ジェントルマン」
「ジェントルマンたる者は、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなく、自己の良心に従って行動するべきものである」
とその当時の日本には画期的な、自由主義の教育方針を唱えたのです。
クラークはさっそく、学校の組織づくりにとりかかりました。まず教育課程は4年間とすること、教育内容は、農学・物理など、西洋の発達した科学を取り入れる事、そして実技を最重点に置くことなどでした。
学生達は、午前は講義、午後は実験や農場での作業、そして夜は薄暗いランプの下でノートの整理という、超多忙な日課をこなしました。これは学生達にとって、決して楽なことではありませんでしたが、皆クラークの教育方針に従って、熱心に取り組みました。第一期生24人の中には、佐藤昌介、岡崎文吉らがいました。
クラークは教育の中で、学生達にたとえどんな労働でもそれに対する報酬を与えました。1時間の労働に対し、5銭払うというものです。侍の子はどんなに貧しくても、働いたり金をもらったりするのは卑しいことだと教えられていた学生達にとって、それは今までにない経験でした。クラークは、彼らに働くことと、それから得る報酬の尊さを学ばせたのです。そして、いつも学生達への思いやりも忘れてはいませんでした。
ある日、冬の教室の中で、寒そうに机に向かっている学生を見たクラークは、「君、顔が青くなっているよ」と微笑みかけると、その学生を外に連れ出し、取っ組み合いを始めたのです。しばらくして、クラークは笑いながら言いました。
「ほら、暖かくなっただろう。君の顔も今は真っ赤だよ」
また、彼は学生達に対して、やさしさと同時に厳しさを持ってあたりました。ただ、学生達に厳しい規則を守らせるには、自分自身もそのお手本とならなければならないと考えていました。黒田の家に招かれたある日、酒をすすめられたクラークは、
「私は学生達と禁酒の約束をしました。ですから、今晩はお酒をいただくことはできません」
と断りました。
「いや、学生達が本当に約束を守るかわからないですよ」
とさらにすすめる黒田にクラークは、
「学生達は私を信頼しています。ですから私も、その信頼に応えてあげたいのです」
ときっぱりと答えました。
こんな彼と学生達の間に信頼関係が生まれるのに、時間はかかりませんでした。どんなに厳しくつらい日課でも、クラークのもと、誰一人音を上げる者はいませんでした。
さらにクラークが心をこめて学生達に伝えたことは、聖書、キリストの教えでした。長い間キリスト教が禁止されていた日本で、キリスト教の精神を教えることは、皆思いもよらぬことでした。しかし聖書こそ、最良の道徳教育と考えていたクラークは、愛情込めてキリストの教えを説きました。学生達はキリスト教に深く感銘を受け、その中には、熱心なクリスチャンとして後に有名になる内村鑑三がいました。
クラークは、このような忙しい毎日の中でも、家族への手紙を忘れませんでした。
「妻へ 農学校での仕事はとても楽しく、私のほうから努力しなければならないことは何もありません。学生達は、これ以上望めないほど善良で、熱心です。そして、非常に礼儀正しく、私の指導に対してたいへん感謝してくれており、私は本当に幸せです」
ボーイズ・ビー・アンビシャス
学生達に、勉学だけでなく道徳や人としてのあり方など、計り知れない程の影響を与えたクラークが、来日して10ヶ月後の明治10年4月、いよいよ札幌を去らなければならない時がやって来ました。
その日の授業は全て取りやめ、教授や学生達全員が馬に乗り、シママップ(島松)まで見送りに来ました。クラークは、ひとりひとりに力いっぱい握手をすると、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と叫び、さらに言葉を続けました。「not for money, or for selfish aggrandizement」
「少年よ、大志を抱け。それは、金銭や欲のためではなく、また、人よんで名声と言うむなしいもののためであってはならない。人間として当然備えていなければならぬ、あらゆることを成し遂げるために大志を持て」
そしてひらりと馬にまたがり、雪のまだ残る泥道を蹴って、林の中に走り去りました。
クラークはその後59歳でこの世を去りましたが、生涯を振り返った時、どんな仕事よりも満足し、印象に残っていたのは、札幌での8ヶ月間の仕事だったといいます。彼の残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」は、札幌農学校のモットーとなり、いつの時代の、どの青年にも限りない夢と意欲を与えてきた、最大のスローガンとなりました。クラークが打ち立てた教育理念は後継者たちに受け継がれ、その教育体制は、現在の北海道大学へとつながっているのです。
(出典:「ほっかいどう百年物語」中西出版)
STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。
~ ほっかいどう百年物語 ~
第1回【札幌で愛され続ける判官さま】北海道開拓の父・島義勇
第2回【世界地図に名を残した唯一の日本人】探検家・間宮林蔵
第3回【すすきのに遊郭を作った男】2代目開拓使判官・岩村通俊
第4回【北海道の名付け親】探検家 松浦武四郎
第5回【苦難を乗り越えて…】知られざる会津藩士と余市リンゴの物語
第6回【NHK朝ドラ「マッサン」のモデル】日本ウィスキーの父・竹鶴政孝
第7回【龍馬の意思を受け継いで】北海道に理想郷を求めた甥・坂本直寛
第8回【新たな国を目指して】激動の幕末にロマンを追い求めた榎本武揚
第9回【伊達氏再興のために】北海道伊達市の礎を築いた伊達邦成
第10回【新選組の生き残り】北海道で余生を送った二番隊隊長・永倉新八
第11回【白虎隊ただ一人の生き残り】北海道の通信の発展に尽力した飯沼貞吉
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