2017年は、幕末維新150年の年にあたります。なかでも、幕末に活躍した4人の大名は四賢侯(伊達宗城・山内容堂・島津斉彬・松平春嶽)と呼ばれています。今回は、そのうちの一人、松平春嶽についてご紹介しましょう。
わずか11歳で福井藩主に!実は徳川吉宗の子孫・松平慶永(春嶽)
徳川吉宗の二男・宗武を祖とする田安徳川家の当主・徳川斉匡(なりまさ)の八男として文政11(1828)年に生まれた松平春嶽は、諱を慶永(よしなが)と言いました。春嶽とは、後に名乗った号です。
元々は伊予松山藩主・松平勝善(かつよし)の養子に決定していたのですが、天保9(1838)年に越前福井藩主・松平斉善(なりさわ)が亡くなったためにこちらの養子となり、11歳で福井藩主になりました。
幼少時から読書と学問にいそしんでいた春嶽は、聡明な人物でした。
この時、藩は90万両もの借金を抱えていたのですが、それを何とかするために彼は藩政改革に乗り出します。
藩士の俸禄を3年間半減し、自身の出費を5年削減したり、洋式大砲を導入したりして軍制改革にも努めました。また、藩校「明道館」を創設して西洋式の学問を教え、人材育成を図り、身分を問わない積極的な人材登用を行い、殖産興業政策に力を入れたのです。
こうした改革を、10~20代で行ったのですから、大した君主だったわけですよね。
時代に翻弄される春嶽
ペリーが来航した際、春嶽は攘夷を主張しましたが、やがて開国派に転じます。しかしこの時、将軍・徳川家定の後継を巡り、徳川慶福(後の家茂)を推す大老・井伊直弼らに対し、春嶽は一橋慶喜を支持し、対立します。
また、日米修好通商条約を井伊が勅許無しで締結したことに抗議して江戸城に無断登城したため、その咎により隠居・謹慎処分とされてしまったのでした。
その後、井伊が桜田門外の変で暗殺されると幕政復帰を果たします。政事総裁職という重役に任命され、公武合体政策を推し進めますが、一橋慶喜をはじめ、周囲の意見統一を果たせずに歯がゆい思いをすることとなります。
慶応3(1867)年、山内容堂や伊達宗城、島津久光らと四侯会議を開き、幕府から主導権を雄藩へと移そうと画策しますが、慶喜に翻弄され、それも果たせませんでした。そこから薩摩・長州藩が討幕へと傾き、大政奉還となるわけです。
春嶽は倒幕には反対でしたが、戊辰戦争には新政府軍として参加し、新政府で民部卿や大蔵卿を務め、明治3(1870)年に退いた後、明治23(1890)に63歳で亡くなりました。
聡明でありながら、幕末の動乱に翻弄され、その力を発揮できなかった人物だったと言えるかもしれません。
坂本龍馬との交流も!
春嶽は、優れた人物であれば身分を問わず面会しました。そのうちのひとりが、坂本龍馬です。
龍馬に面会した春嶽は、彼をひとかどの人物だと認めたのでした。勝海舟への紹介状も春嶽が書いています。そして、土佐藩主・山内容堂に龍馬の脱藩を赦免して欲しいとも頼んでいるんですよ。
この後、勝海舟の弟子となった龍馬は、勝が海軍操練所を開設することになり、資金調達のために再び春嶽の元を訪れます。そして春嶽を説得し、5千両(11億円)を借りることに成功したのです。
余程、春嶽は龍馬を見込んでいたのでしょうね。
春嶽は「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しきところに従ふ」という言葉を残しています。これは「自分には優れた才能や知恵も、特別な力もない。ただ、いつも皆の言葉に耳を傾けて、良いと思われる意見に従うまでだ。」という意味です。
坂本龍馬をはじめ、横井小楠や由利公正、中根雪江、橋本左内といった優秀な人材を積極的に登用していた春嶽は、現代でも優れたリーダー像として評価されています。
幕府の存続を望みながらも、時代の大きな流れに飲み込まれ、抗うことのできなかった春嶽。聡明だからこそ、自分の状況に歯がゆい思いをしていたことでしょう。しかし、彼の幕末における奮闘は、歴史にしっかり刻まれています。
(xiao)
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